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2008-12-14

『崖の上のポニョ』は大傑作だけど、時代遅れ

 宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』を観た。宮崎監督、老いてますます盛ん、そういいたくなる大傑作だ。ここに至り、遂にジャン=リュック・ゴダール監督と同じような域に到達している。

 物語は単純。魚の女の子・ポニョが人間の男の子・宗介に恋をして、頑張って人間になる話。捻りも何もなく、そのまま。あまりにそのまますぎて、異常な映画になっている。
 異常な点その1、色んなものが説明されない。特に登場人物。描かれていない裏設定があることだけは窺い知れる。ポニョが魚のくせにハム好きなのも、ちゃんと理由があるのかもしれない。
 その2、ポニョのせいで大災害が発生しているのに、誰も動揺せず、のんきに過ごす。
 その3、色んな展開が色んな段取りをすっ飛ばしている。一言でいうと、『週刊少年ジャンプ』の打ち切り漫画みたい
 全体的にいえることは、物語的に超手抜き。普通の映画(物語)なら取る手続きを完全無視し、作者の都合の良いような展開だけで構成され、アイデアがただ連なっているだけの、流れのある物語というよりは要素だけで構築された、ムチャクチャな映画だ。普通なら、間違いなく駄作になっている。そう、普通なら。『崖の上のポニョ』は、駄作要素しかないのに大傑作となっているのだから、物凄い。宮崎監督だからこそ、できることだろう。

 『崖の上のポニョ』を、物語・展開はそのままに、他の監督が作ったなら、間違いなく駄作になっている。どんなつまらない話でも、名監督が作れば傑作になる――そーゆー不遜さが『崖の上のポニョ』、ひいては宮崎監督にはある。だから『崖の上のポニョ』は、物語より、演出の映画だ。というか、宮崎監督の映画は、昔から演出の映画だった。
 宮崎監督作品の質は、たぶん殆どの人が感じているだろうけど、『もののけ姫』から著しく変わった。兆候は『紅の豚』からあったし、『魔女の宅急便』もかなりおかしな映画ではあったけど。決定的だったのは『千と千尋の神隠し』だ。伏線も何もかもをすっかりなかったことにして、ハッピーエンドになる健忘症な映画だった。そして『崖の上のポニョ』は、前衛の域に近付いている。
 『崖の上のポニョ』を常識論で批判するのをよく見たけど、宮崎監督は常識論や論理性なんて気にしちゃいない。例えば『映画秘宝』のように細かく揚げ足取りをすることは可能だし、それは正しい指摘なんだけど、常識論や論理性で『崖の上のポニョ』を批判することに意味はない。そーゆー批判が通用するのは、常識論や論理性を“売り”にしている映画だけだ。宮崎監督は、ショットで語る。だから批判するなら、技術論しかないのに、批判者の殆どが常識論だ。
 『崖の上のポニョ』は、完璧とはいえなし、宮崎監督映画史上最高傑作ともいえないけど、とても素晴らしいショットで溢れている。ポニョの妹たちが活躍する場面。ポニョが魔法で海を操り、宗介を追いかける場面。ポニョの母親と宗介の母親が話し合っているのをロングショットで描いている場面(つまり、何を話しているのか観客にはわからない)。空を飛ばないし、高い塔を昇ることもないけど、海底から崖の上まで上下する縦の動き、車の横の動きなどのダイナミックな運動性。光と闇の差。
 他にもあるけど、それらの殆どが物語に貢献していないのが凄い。批判される非常識的なシークエンスも、あってもなくてもどうでもいいものばかり。つまり、『崖の上のポニョ』は、どうでもいい場面ばかりでできている。しかし、それこそが映画にとって重要な部分なんだと思い知らされる。物語的な整合性や、盛り上げる要素や必然性なんて無視しても映画は映画として成り立つことを思い知らされる。
 宮崎監督は、アニメ監督で唯一、映画とはどんなものかを知っている。どうでもいい場面ばかりで、しかも展開を完全無視して、方向性まで無視しても、ちゃんと映画を作れていたという意味で、『崖の上のポニョ』は、クエンティン・タランティーノ監督の『デス・プルーフ』、クリスピン・グローヴァー監督の『What is it?』と『It is Fine! Everything is Fine.』などと同類といえる。
 楽しむために物語は重要な役割を担うけど、別になくても、ショットの力だけでも何とかなるもんだ。『崖の上のポニョ』を「わけがわからない奇妙な映画」と感じるとしたら、ショットの力だけでごり押しした映画だからだろう。
 例えば、常識論で批判されたインスタントラーメンを食べる場面、あそこでは食べる運動性が重要なのであって、インスタントラーメンかどうかはそんなに重要でない。観客の殆どはインスタントラーメンを食べているだろうから、親近感を抱かせるためにインスタントラーメンを使っただけだろう。お湯を注いで待つ、という運動性が重要なのだ。それに、インスタントな食事は、『ルパン三世 カリオストロの城』からの伝統だし。わざわざハムを2枚重ねにしてあるのも運動性を重視してのことだ。基本的に宮崎監督は運動性で考えるのではないだろうか? だから凄いし、同時にわけがわからなかったりする。

 『崖の上のポニョ』の最後、宗介に試練が与えられる。元魚のポニョを差別なく受け入れられるか、という子供にとっては簡単すぎる試練が。宗介は、当然のように迷いなくポニョを受け入れる。大人からすると、もう少し逡巡してもいいんじゃないか、と思ったりする。またはもっと厳しい試練や展開があってもいいんじゃないか、と。しかし、そんな展開は邪魔だとばかりに、『崖の上のポニョ』はあっという間にハッピーエンドを迎える。
 面倒臭いものはいらない。世の中には面倒臭いものが多すぎる。そんな世の中だから、もっと大らかに、もっと単純にあってもいいんじゃないか――『崖の上のポニョ』のメッセージはそれだけだ。そして、それは宮崎監督作品の全てに通じるものでもある。根底にある思想は変わらず、表現する方法だけが変わった。もっと大らかに、もっと単純に。
 映画とは何だろう? 私は、現実的でないものを見せてくれるものだと思っている。デカいスクリーンで物凄いものを見せてくれるものだと。だから、物凄いなら物語的な整合性や常識や論理性なんて全くなくて構わない。映画をぶち壊そうとしたゴダール監督の『ウィークエンド』なんて、物凄く映画だ。
 宮崎監督は、スティーヴン・スピルバーグ監督のように、大稼ぎしたから、もう好き勝手に映画を作れると思う。まあ、ジブリは宮崎監督なしにあり得ない会社だから、責任はあるだろうけど、それでも制約は少ないだろう。それに、結構な歳だ。今後はますます変な映画を作るんじゃないだろうか。『天空の城ラピュタ』みたいな典型的冒険ロマンというか物語に整合性がある映画はもう作らないだろう。単純に、ますます単純に。信じるものだけが楽しめる、そんな生を描くだろう。そしてそこには、喜びと、怒りが含まれるに違いない。だって、大らかに、単純に、という考え方を強く前面に推し出すということは、怒っているからだし。

 ところで、手描きにこだわったのが『崖の上のポニョ』の売りだけど、実際マスメディアで喧伝されていたのはその点だし、プロの評論家もこぞって「手描き」の素晴らしさを褒め称えているけど、はっきりいって『崖の上のポニョ』の「手描き」とやらは、全くちっとも大したことない。そう思う理由として、昔はそれが当たり前だったからだ。
 「手描き」を褒め称えるなら、昔のアニメと比べるべきだろう。昔の手描きアニメと比べて、どこか進歩しているだろうか? 贔屓目に見ても、進歩は見られない。
 例えば、大友克洋監督の『AKIRA』と比較してみればいい。『AKIRA』には少しCGが使われているけど、大部分は手描きだ。もしも『崖の上のポニョ』が『AKIRA』と同じ時期に公開されていたら、今みたいに話題になって大ヒットしただろうか? してないよねぇ。あの「ポ~ニョポ~ニョポニョ」て歌も、『AKIRA』の「らっせら! らっせら! らっせらっせらっせら!」て歌に並ぶと見劣りする。アニメ史に残るのも『AKIRA』だろう。しかし、何十年か経って観返すと、色褪せないのは『崖の上のポニョ』の方だろう。それは、技術論を抜きにし、どちらが映画として凄いか、という観点から。映画として優れているのは『AKIRA』だ。
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テーマ : 映画館で観た映画
ジャンル : 映画

tag : 崖の上のポニョ

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プロフィール

ばっどていすとさんどいっち

Author:ばっどていすとさんどいっち
テクノ好き。
アンダーワールドのRez大好き。
映画大好き。
ジャッキー・チェンが生涯の英雄。
生涯1位作品は『ミミズバーガー』。
2位が『溶解人間』。
泣き虫で、馬鹿。
itsuka-omoi-dasu-bts@hotmail.co.jp

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