--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2008-09-25

『接吻』は理解を拒んだ傑作

 小池栄子さん主演の『接吻』を観た。正直いって、大して期待していなかったんだけど、驚いた。出だしから震えるくらいの、傑作ぶりだった。余りにも狙った傑作ぶりなんで、粗探しをしたくなるくらいに。で、粗は見つかったのかというと――

 「映画とは、見たことのない、現実的でない物事を見せてくれるもの」が持論の私としては、『接吻』の物語は正直、「またか」とうんざりする類型的なものだった。方向性としては、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』や『ハネムーン・キラーズ』のような物語だ。
 引きこもりの青年が、自己中心的でわがままな理屈から見知らぬ一家を殺害する。同じく、殆ど引きこもり一歩手前の女性が、殺人青年が逮捕される報道番組を見て、殺人青年に一目惚れする。 
 殺人青年と普通の会社員の女性という、決して交わることのない2本の線が、殺人青年の弁護士というもう1人の登場人物によって3本の線となり、絡み合う。弁護士によって面会を重ねる毎に、殺人青年と女性の距離は縮まる。面会室という狭い部屋、ガラス壁1枚に隔たれたその距離が、何の障害でもないように。
 しかし、殺人青年と何の関係もない女性が面会できるのは、殺人青年に死刑判決が出るまで間。判決が下されれば、もう逢えない。それならば、と女性と殺人青年は獄中結婚を断行する。それが幸せな結末を迎えることがないのは明白なのに。
 
 ちょっと変わった恋愛ものだけど、ありふれた物語だ。『接吻』は、あらすじを読む限りでは、そう感じる。出だしの雰囲気からして、黒沢清監督や青山真治監督と似たようなところがあり、「またか」と思わせる。しかし、そう思うのもせいぜいで数分だ。
 見たことのある景色、設定、台詞、物語が、気付いたら見知らぬものへと様変わりしている。観終えて気付く。『接吻』はとても計算高い映画だと。
 殺人青年が住宅地をぼんやりと歩いている冒頭の場面、殺人青年の背中を映すショットは、殺人青年の背中の向こうに映る電柱と電線を十字架のように捉える。刑務所の面会室で、弁護士と殺人青年が面会している場面、殺人青年さんは俯いていて、その顔には暗く陰がかかり、まるで亡霊のように表情が見えない。弁護士と女性が弁護士事務所のあるビルの階段で話をする場面、まるでアルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』かマウリッツ・エッシャーさんの騙し絵かと思うようなショット。
 映画ファンなら喜んでしまうような演出が随所に施されている。ある意味でクエンティン・タランティーノ監督と似たことをしているのに、そうは感じさせない。たぶんそれは、監督と脚本に迷いがあるからだろう。決定的な何かを描こうとしていない。避けている。そしてそれは、3人の主要人物の絡み合いにもよく表れている。

 交わっている3人の線は、実は自己主張をするばかりで、本当は交わっていない。
 女性は、殺人青年のことが理解できるという。それは、誰からも理解されない自分に対する慰めだ。だからこそ、女性は殺人青年のことを「誰よりも理解している」と言い張るし、思い込む。なぜ自分が誰からも理解されないのか、それがわからないくせに。
 殺人青年は、理解されたいと願っている。そして、理解されないなら、理解させてやれ、と行動を起こす。
 弁護士は、みんなを理解したいと思っている。理解することが職務だからだ。しかし、「職務」が前提にある彼は、「理解しようとしている」だけで理解する気はさらさらない。
 3人に共通しているのは、「理解」を基点とする不毛な人間関係だ。誰もが理解しようとして、理解してもらいたいと願う。まずは適切な関係を築こうとは思わない。あれを説明してこれも説明して、という段取りがない。それは、『接吻』自体にもいえることだ。『接吻』には説明がない。会話は溢れる程にあるのに、説明的な描写がない。理解させることを拒むようだし、監督自身、理解しようとは思っていないようだ。しかし、それこそが「映画」なんだと思う。
 弁護士事務所の階段での会話の場面のように、女性と弁護士は上下の位置的に重なっているけど、実際に重なることがないように、『接吻』は騙し絵のようだ。凡庸で、ありふれた会話――それが深い落とし穴になっていることに気付くのは、落ちてからだ。

 ホラー映画やサスペンス映画を見慣れた観客なら、途中で最後の展開は読めるだろう。会話のつまらなさやわざとらしさが鼻に付くかもしれない。ブライアン・デ・パルマ監督作品なら誰も気にしないだろうが、『接吻』は、『ありがとう』というお涙頂戴映画を作った万田邦敏監督の映画なのだ。まさか、と思うじゃないか。実際は、デ・パルマ監督も真っ青な映画なんだけど。
 衝撃的な結末、それを言葉にするのは容易い。似ている映画を挙げると、例えば『くの一淫法 百花卍がらみ』や『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』や『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』、そして『悪魔のいけにえ』なんかと同等。
 黒沢清監督が成し遂げようとして成し遂げられなれないものが、『接吻』にはある。それは、「映画」であること。これは「映画」なのだ、と殊更に強調して、そのわざとらしさゆえに「映画」であること。映画とは、アクションなんだ、ということ。『接吻』に於けるアクションは、「発声」だ。原始的な激情の発露として、「発声」以上のアクションはない。
 『接吻』というロマンチックな題名に惹かれると、そのとんでもないアクションに衝撃を受ける。主人公の女性を演じた小池栄子さんの凄まじさに驚嘆する。殺人青年を演じた豊川悦司さん、弁護士を演じた仲村トオルさんの抑えた演技に感嘆する。みんな、声が魅力的だった。「声で選んだのでは?」と思うくらいだ。

 そして、つまらない、ありふれた会話は、積み重なって、決定的な「決め台詞」へと到達する。最後の数分間で、『接吻』は「普通の佳作」から「傑作」へと、「傑作」から「異様な傑作」へと姿を瞬く間に変える。
 映画ファンを自認する者なら、誰もが途中から「どうせこんな展開だろ」と「読めてしまう」が、それは理解したつもりに過ぎない。理解しようとする人間の本能は、どんな怪物でも理解できると考えてしまう。それが「つまらない、ありふれた会話」によって形成されていてることに気付かなくても。
 最後の最後で行われる、観客が今か今かと待ち望んだ、接吻。「ここでようやく接吻が行われるのか」と驚く余裕もなく、観客の理解を超えた、しかし間違いなくロマンチックなアクション。その後に訪れる、完璧な断絶。重力のように、理解しようとすることは自然の摂理だとするなら、それを真っ向から拒否する、最後の一言。

 ――粗は見つかるわけもなく、見つかってもそれに意味はなく、『接吻』はただならぬ傑作を超え、カルト映画として映画史に残る異様な映画だろう。例えば『映画秘宝』があと何十年も刊行され続けるとしたら、何十年後に振り返って、必ずカルト日本映画の1本として『接吻』を取り上げるのは間違いない。
 理解できないとは、何と素晴らしいことか!
スポンサーサイト

テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

tag : 接吻

comment

管理者にだけメッセージを送る

プロフィール

ばっどていすとさんどいっち

Author:ばっどていすとさんどいっち
テクノ好き。
アンダーワールドのRez大好き。
映画大好き。
ジャッキー・チェンが生涯の英雄。
生涯1位作品は『ミミズバーガー』。
2位が『溶解人間』。
泣き虫で、馬鹿。
itsuka-omoi-dasu-bts@hotmail.co.jp

最近の記事
プルダウンリスト
プルダウンタグリスト
ブログ内検索
ブログ全記事表示

全ての記事を表示する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。