--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2011-04-05

指さす先

 私の知人Aが仙台に住んでいて、東日本大地震に遭った――と思いきや、地震発生の前日に仙台から金沢に来ていて難を逃れました。そして同じ頃、知人Aの妹が金沢から仙台へ行こうとしていたのですが、兄が仙台から戻って来ていたので、やはり地震の前日に仙台行きを取り止めていました。兄妹でギリギリのところで難を逃れたわけです。
 この話を聞いた別の知人Bは、「神の意思を感じるわ」といいました。

 知人Bがいうように「神の意思」があるのでしたら、助かった知人Aは「神の意思」によって助けられたことになると同時に、助からなかった被災者は「神の意思」によって助からなかったことになります。もちろん知人Bは、知人Aに対して軽い気持ちで「神の意思」といっただけなので、被災者に対して「神の意思」が働いたとは思ってもいません。いませんが、「神の意思」理論でいえば、被災者は「選ばれて被災した」ことになります。
 「神の意思」があるのでしたら、もちろんその意思には意味がある筈です。天災にしろ人災にしろ、意味があって発生している筈です。意味もなく大量の人間を殺すなんて、そんな神様はいてほしくありません。しかし、昔のゲーム『ポピュラス』ではありませんが、ゲーム感覚で行使されただけの「神の意思」なのかもしれません。「ちょっとここら辺、ごちゃごちゃしてきたから、更地にするか」とゲーム・コントローラーのボタンが押されて発生したのが東日本大地震だったのかも。
 この世のあらゆる物事を知れば知る程、奇跡的なバランス感覚に満ち溢れ、ただただ世界の素晴らしさに驚嘆し、神様はいてもおかしくないな、と思ったりします。この世を設計した存在がいるのだろう――と。であれば、この世の何もかもは計画的に遂行されていると考えられます。日本からするととんでもない大災害である東日本大地震も、長い長い期間で見れば、そこに意味を見出すことは可能なのかもしれません。その意味は、「天罰」であるのでしょうか?

 石原慎太郎都知事は、東日本大地震に対して「天罰」だといいました。もちろん石原都知事が被災者に対して「天罰」といったわけでないことはわかり切っています。いますが、有名政治家たる者が安易に誤解を受ける発言をしてはいけません。都知事だからいいものの、これがどこかの大臣であれば確実に失脚するレベルの発言です。
 さて、石原都知事が想定する「天罰」を下す神様は、どのような神様なのでしょうか? たぶんキリスト教的な神様でなく、八百万の神様だと思います。何らかの神様が怒っていて、それを知らしめるために大災害を発生させたのだ、と石原都知事はいったわけですね。しかしそれは、「石原都知事が怒っている」のであって、「神様が怒っている」のではありません。なぜなら、神様が「天罰」を下すのなら、それは「天罰」であることが誰にとってもわかるようでないと意味がないからです。石原都知事からすると、今の日本には我慢ならない点が多くあり、そこへ発生した大災害だから、これは「天罰」だ、と思ったのでしょう。つまり、それは石原都知事の怒りでしかありません。神様が怒ったという証拠はどこにもないのです。

 イランの映画監督であるモフセン・マフマルバフ監督は、バーミヤンの仏像がテロリストによって破壊されたことを、「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」と表現しました。
 遠藤周作さんの『沈黙』は、イエスはなぜ苦しんでいる人々に救いの言葉を何も語りかけないのか、と問い質します。その答えは、ただ黙っているのではない、己の無力さに声を発することもできず、皆と一緒に苦しんでいるのだ、というものでした。
 マフマルバフ監督のは仏教で、遠藤さんのはキリスト教ですから、両者は異なる宗教なのですが、いっていることは似ています。私も感覚的に両者のいっていることに納得できます。
 またマフマルバフ監督はこんな感じのこともいっています。「仏像が苦しむアフガンを指さして崩れ落ちたのに、誰もそれを見なかった。愚か者は、指した先でなく、その指を見る」と。もしも「天罰」であるなら、それは神様の「意思表示」であるので、我々はその「指さす先」を見なければなりません。ところが、「天罰」といった当の石原都知事も「指さす先」を指摘することはありませんでした。皆から非難され、謝罪しただけ。「天罰」だと思ったのなら、はっきりと「天罰」だといえば良いのです。神様の意思表示は、神様ゆえに甚大な出来事を巻き起こすのだ、と。
 石原都知事も作家だったので、今回の大災害には創作意欲を掻き立てられるたまらない魅力があったかもしれません。マフマルバフ監督はさらにこんな感じのことをいっています。「あらゆる場所に、映画の題材がある。平和な街の何でもない片隅に、映画の題材がある」と。芸術家たるもの、色んな物事に魅力を見出してしまうのでしょう。素晴らしいことです。しかしその芸術家的思考ゆえに、「危険なアフガンで頑張る人々がいる。そこに映画の題材がある。そして、今にも死にそうな人々が辺り一面を覆い尽くしている。私は思ってしまう――ここにも映画の題材がある。私は、映画を辞め、他の仕事を探したいと思った」と苦しみます。

 この状況ですから、各地域で行楽イベントの自粛の話がよく聞かれます。被災地のことを思えばそうなるのも理解できますが、何もジャンジャカ騒ぐだけが行楽イベントではないと思います。被災地のことを考え、被災地では無理な行楽イベントを代わりに味わうのだと思えば、大騒ぎするわけではない、しっとりとした行楽イベントも可能でしょう。時にはそーゆーのもいいものだと思います。
 または、TV放送で、通常番組を再開した際に批判的な意見が集まったとも聞きます。テレビ東京は早めに通常番組を再開したからか、批判が多かったそうです。批判者が被災者なら理解できますが、そうでない人々が批判するのは過剰反応でしょう。
 もしも「神の意思」があって、皆が選ばれているのだとすれば、被災しなかった者には被災しなかった理由があり、それに値する行動を取る必要があります。被災しなかったからといって気に病んだり、負い目を感じたりする必要はありません。被災しなかったからできる行動を取れば良いだけのことです。問題になっている自粛行動がそれだとは思えませんが。

 私は、ちゃんと「指さす先」を見つめられているのか? 指先しか見ていないかもしれません。
 色んな映画を観て、「見る」という行為を重ねている筈なのに、余りにも杜撰に物事を見ることしかできていません。TVの災害報道を見ると、「見る」と「映す」は同じようなのに、全然違うことに気付かされます。
 被災者のアップ、悲しい顔のアップ、悲惨な場所のアップ、アップ、アップ、アップ……被写体に近付き、視点を明確にする。意外や意外、クリント・イーストウッド監督の『ヒアアフター』には、視点の明確さが欠けていました。たぶんそれが物語的な面白くなさとなり、評判が悪いのかもしれません。しかし、イーストウッド監督は「悲しい顔のアップ」だけを撮って感傷的になるようなことはしません。「指さす先」を撮っています。
 もしも、理解せずに指先しか見ていないのだとしたら、それは滑稽であると同時に物悲しいことです。
スポンサーサイト

テーマ : 気になったニュース
ジャンル : ニュース

comment

管理者にだけメッセージを送る

プロフィール

ばっどていすとさんどいっち

Author:ばっどていすとさんどいっち
テクノ好き。
アンダーワールドのRez大好き。
映画大好き。
ジャッキー・チェンが生涯の英雄。
生涯1位作品は『ミミズバーガー』。
2位が『溶解人間』。
泣き虫で、馬鹿。
itsuka-omoi-dasu-bts@hotmail.co.jp

最近の記事
プルダウンリスト
プルダウンタグリスト
ブログ内検索
ブログ全記事表示

全ての記事を表示する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。