--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2011-04-29

無駄になる善意と、無駄になる金

 何か、アメリカのCNNに流すCMを外務省が作ったそうで。どんなものか見てみたら、完全版は見つかりませんでしたがTBSのサイトにニュース映像がありました。

TBS News i→支援に「ありがとう」、米でCM

YouTubeならこれ↓


 断片的にしかCM映像は見られませんでしたが、断言できます……
 このCM作った奴、馬鹿!

 何このオカシナCM! 日本の駄目な映画やドラマを見せられているような最悪さ! 苦情が殺到したらしいACのCMの方がまだ何倍も良くできています。
 しかも、CNNの提案で作ったぁ? 何それ!?
 しかもしかも、最後の「アリガトゴザイマス」てカタコト日本語の挨拶は何!? なぜアメリカ人向けにカタコトの日本語!? それ、アメリカ人を馬鹿にしてない!?
 しかもしかもしかも、最後が富士山の映像って……被災地じゃねーだろボケ! 外人にとって日本とは富士山、というのはさすがに時代錯誤すぎません? いや、殆どのアメリカ人からすると日本は、「富士山、芸者、天ぷら、寿司」で、若者になれば「マンガ、アニメ、オタク、萌え」なのかもしれませんが、だからって富士山の大写しは……日本をよく知っていて支援してくれたアメリカ人からしたら、「は? 何で富士山?」と思われませんかねぇ?
 英語で語っているから、日本以外の、世界の色んな災害映像を集めただけに見えますし。どこで誰が誰を助け、誰が誰に対して感謝しているのか、さっぱりわかりません。下手すると、大多数のアメリカ人から、「ふーん、よくわからんが、何を感謝してんだ?」くらいに受け取められる可能性もあります。こーゆー感謝の気持ちは、不特定大多数に対して大まかに伝えようとするより、焦点を絞った方が良いのじゃないでしょうか。
 それに、支援しなかった人からすると、このCMは単なる嫌味です。それが頻繁に放送されるのですから、ウザいと思われているかも

 アメリカ以外にも支援してくれた国はいて、その国々にも同じことしてるのでしょうか? もちろん国によって支援規模の大小がありますから、全ての国に対して平等な感謝をすることはコスト的に無理でしょう。外務省としても、アメリカ最優先になるでしょう。しかし、支援してくれた国民から「何でアメリカに対してだけ」と思われたりしないか、心配になるのですが。
 この違和感は……あれです、西洋人が勘違いして入れてる漢字タトゥーや(『トランス・ポーター3』のヒロインであるヴァレンティーナの「安」というタトゥーとか)、日本人が勘違いして使っている英語プリントのTシャツとかを見た際の「バッカでー」という嘲笑感に似ています。
 日本は、オリンピック誘致の際も、サッカーのワールド・カップ誘致の際も、必ず下らないことして失敗していますよね。ワールド・カップの時なんて、少女でプレゼンしちゃって。ロリコン向け? さっすが萌えの国ですよねー。ロリコン向けなのだとしたら、プレゼンした少女は、ワールド・カップ開催時には成長しちゃうから、意味ないですけど。あ、だから落選したのか。
 日本は、海外向けに意思表示したり伝達するの、本っ当に下手クソ。

 何にしろ、国際的な力関係がどーしたこーしたということを抜きに、このCMの出来は酷い。このCMが外務省の指示通りなのだとしたら、指示した駄目役人が悪いってことです。
 このクソCMの費用がいくらなのか、そっちに興味あります。
スポンサーサイト

テーマ : 気になるニュース
ジャンル : ニュース

2011-04-29

痛みを伴わない否定はない

 金沢市の市議選で、「脱原発」を唱える議員がトップ当選していました。初のトップ当選だそうです。「脱原発」が効いたのかは知りません。原発は安全だから、と語っていた知識人や学者が謝罪をしています。結構な人数がそれを批判しています。今さら無責任だ、と。福島原発のせいで避難させられる方々の中には、原発の恩恵に与ることがなく、それなのに強制的に避難させられるため、ただただ政府と東電に腹が立つ、という方が多くいます。
 日本全体を見ても、原発の存在に疑問を感じている人が多数のようです。今は当然ながら、「反原発」な風潮です。福島原発があのような事態である以上、当然の結果です。
 しかし、と思います。

 今の日本に過ごしていて原発の恩恵に与らない人は殆どいないでしょう。直接的なお金の支給がなくても、間接的に原発の電力の恩恵に与っていると思います。色んな物の生産には大量の電力が使われていますし、色んな施設の運営にも大量の電力が使われています。それら全てを原発の電力なしにまかなうのは難しいでしょう。
 「脱原発」をすれば、確実にその生活は変わります。変わったって構わない、という人が大勢いるからこその「脱原発」大流行ですが、以前からずっと一貫して「脱原発」を訴えていた人ならちゃんと考えていると思いますが、何となく流行に乗っただけの「にわか脱原発」の人は、自覚なく、またもや何も考えていないと思うのです。

 「またもや」というのは、一昨年、自民党から民主党に国民の大半が支持を変えた頃のことを思い出すからです。
 麻生政権の不甲斐なさに、みんなの我慢も限界で、「もう自民党は嫌だ! 民主党にしよう! 何か変わるかも!」と支持を変えました。あの時点で民主党に何もできないどころか害悪にしかならないのは明白だったのに(マニフェストを見るだけで判断できるレベルで)、民主党が与党になりました。まあ、当然の結果ではありました。不安が残る民主党だけど、自民党が続くよりはマシ、とみんなが判断してしまう程に自民党はボロボロでした。とりあえず自民党にお灸を据える気持ちで民主党に入れた人が大半だったと思います。
 駄目な自民党を懲らしめ、改心してもらうために民主党を与党にした。もしかすると民主党が素晴らしい政党なら結果オーライだ。それがあの当時の気分だったと思います。それはみんな自覚的だった筈です。しかし、今になってやはり大勢が「民主党は駄目だ」と大騒ぎしているのを見ると、自覚的でなかったのかもしれません。
 小泉政権の時は「郵政民営化に賛成」で、民主党に鞍替えする時は一転して「郵政民営化に反対」。しかも、自覚なしに。その民意の正当性を議論することなく、国民は安穏と暮らしてきました。
 「にわか脱原発」の人々は、後になって後悔しないのか。自民党から民主党に鞍替えし、今になって「しまった!」と後悔しているように。何となく、同じ構図に見えるのです。

 毎年、<WIRE>という大型レイヴを楽しんでいる私は、原発の電力供給をありがたく感じていました。<WIRE>の演出には大量の電力が必要とされますし、そもそも横浜アリーナの設備だけでなく、横浜アリーナの建設にも大量の電力が必要とされた筈です(建設そのものだけでなく、素材となる鉄鋼の製作とかにも)。安全な環境、ストレスのない運営、魅力的な演出、それらはどこかの誰かの犠牲の上に成り立っている――それを自覚的に楽しむ、それが現代日本人の自覚というものです。
 自由で平和な音楽イベントは、大変な犠牲の上で成り立っているという皮肉。それを自覚できない人は、鈍感だといえます。<レインボー2000>のような屋外レイヴは、太陽光発電を利用するなど、環境保護に意識的でした。
 映画だって同じ。今の映画館の運営を「脱原発」でまかなえるのか、疑問があります。のん気に椅子に座って、ポップコーンを頬張りながら映画を観る楽しみ――それも大変な労力や犠牲の上に成り立っているわけです。
 何にしろ現代日本の生活は、少なかれ原発の恩恵に与っています。それをなかったことにして簡単に「脱原発」を唱えていいのか、わかりません。無自覚に原発の恩恵に与っておきながら、原発を安全だと推奨してきた学者や知識人を今さら「無責任」だと批判すること自体が無責任なのかもしれない、という自問をしなくて構わないのか。

 私んちの前は家庭ゴミ収集場になっており、よく問題が発生します。無断でゴミを捨てる人がいたり、可燃ゴミの日の昨晩にこっそりと不燃ゴミを出す人がいたり、町会で掃除当番を決めても守らない人がいたり、隣の町会の人がこっちの方が近いからと捨てに来たり、本当によく揉めます。たかが家庭ゴミ収集場でも問題が頻繁に発生するのですから、そりゃ原発ともなれば比較にならないくらい大変でしょう。原発と家庭ゴミ収集場を比較して話すな、と怒られそうですけど。
 誰もが完璧に満足することはない――それが原発なんだと思います。原発が完璧に安全でないことは誰だって最初から知っていることです。原発には常に不安が付きまとう。反対運動、誘致騒動、裏での政治的なやり取り――きな臭い話が満載なのが、「クリーンなエネルギー」という名目とは裏腹の原発の当然な事実でしょう。

 「脱原発」を唱える人は、では何を代替案として推進するのか? 火、水、風、土(地熱)、光のエネルギーですか。M・ナイト・シャマラン監督の『エアベンダー』かリュック・ベッソン監督の『フィフス・エレメント』ですけど、それらが原発の分もまかなうにはもっと大きく開発を拡大する必要があるでしょう。それにかかる費用は? 「脱原発」しつつ、そっちに移行するにはお金が必要です。そのお金の管理は誰が行うのでしょう? そのお金を巡ってまた政治家たちがごちゃごちゃと暗躍するわけですか。
 今の日本の生産性を維持するには、いきなり再生可能エネルギーだけでは難しいでしょうから、徐々に再生可能エネルギーに切り替える間は原発に頼らざるをえないと思います。というか、今の不況の日本で完全に「脱原発」が問題なく可能なのか、それが議論されていません。「脱原発」を掲げてトップ当選した人もそこら辺を徹底的に議論しているわけではありませんでした。
 まずは安全を。それは当然のことです。原発のような高リスクの施設に対し、リスク軽減よりもコスト軽減を優先するのは許されることではありません。しかし、どのようなリスクもゼロにすることはできません。どこかで妥協するしかありません。その妥協点をどこまで上げるか、それはどうしたってコストと要相談になります。民主党が行った施策で最も評価されたのが「事業仕分け」であることからもそれは証明されています。どのようなリスクであれ、コストと天秤にかけられるのです
 そして極論をいえば、原発から離れた場所に住む人々にとっては、“そんなこと”よりも安定的な電力供給が優先されると思います。今の状況下であっても。そんな人々をも満足させられる論理を、「脱原発」の人々は持ち合わせているのでしょうか? 奇麗事以外で。それが「またもや」を連想させます。

 ところで、今回の原発賛否論争(今さら何を論争するんだ、という気もしますが)を見ていて、『鋼の錬金術師』の最終話を思い出しました。エドと“真理”の間でこんな会話が交わされます。

 錬金術の使えないただの人間に成り下がるか?
 真理とかいういう物を見ちまってから、それに頼って、過信して、失敗しての繰り返し…踊らされたよなぁ
 もうこれがなくても大丈夫か?
 錬金術が無くても、みんながいるさ
 正解だ錬金術師。おまえは真理に勝った。持って行け、全てを

 そして、全てが片付き、今後を考えるエドはこういいます。

 錬金術が使えりゃ、こんなもん屋根に登らなくてもパッと片付くのに…
 …まあ、手間がかかるのもいいもんだよな

 大きな力を得るためには、代償も大きい。当たり前のことです。
 新たな旅に出るアルは、目標を立てます。

 10もらったら、自分の1を上乗せして、11にして次の人へ渡す
 小さいけど、僕達が辿りついた「等価交換を否定する新しい法則」です。これから証明していかなきゃいけないんですけど

 そして『鋼の錬金術師』は、こんな文章で締め括られます。

 痛みを伴わない教訓には意義がない
 人は何かの犠牲なしに何も得る事などできないのだから
 しかしそれを乗り越え、自分のものにした時……
 人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう

 確かに、それが真理なのでしょう。エドとアルが頑張り続ける理由は、

 僕達が助けられなかった女の子がいます
 その子をずっと忘れる事ができません

というものなのですから。

 「脱原発」には、日本全体の生活を見直すことが重要です。本気の“エコ”を。それをはっきりと明言し、国民に“押し付ける”ことを厭わない重要な政治家が、果たして現れるでしょうか? 「脱原発」には、それ以外に正しい道はないと思います。「脱原発」を安易に支持している人々がそれを正しく理解しているのであれば良いのですが。後から苦情をいっても遅いのですから。
 また『鋼の錬金術師』から――新たな大総統になったグラマンはいいます。

 新たな可能性というやつは、いくつになってもわくわくするねぇ

 否定するばかりでなく、新たな可能性を楽しむこと。被災者には悪いと思いますが、そうしないと物事は進まないと思うのです。何せ、他人の痛みは忘れ易いのですから――

テーマ : 気になるニュース
ジャンル : ニュース

2011-04-25

『塔の上のラプンツェル』は、髪の長さがそのまま魅力度に

rapunzel
 『塔の上のラプンツェル』を観た。
 謳い文句として「ディズニー・クラシックス50作目」や「3Dで描かれる初のお姫様物語」があり、いわば記念的な作品なのに、丁度良い肩の力の抜け具合で、笑いと感動とロマンスが絶妙の配分で混ざり合った傑作となっている。

 物語は、昔ながらのお姫様物語なんだけど、展開と演出に現代味があり、全く古臭くない。ディズニー久々の真っ当なお姫様物語かと思いきや、かなりの変化球。前作の『プリンセスと魔法のキス』も変化球だったけど。ディズニー定番の動物のお供なんて、カメレオンだし。
 お姫様である主人公のラプンツェルの風貌がまず面白い。21メートルもある長髪という設定の時点で画面的には勝ったも同然。髪をズルズルと引きずりながら画面を横切る場面なんて、いつまで経っても髪の端が映らないから、その長髪ぶりに笑ってしまうくらい。冒頭のミュージカル場面からその長髪が存分に活かされており、その美しさと面白い――髪の毛を道具のように自由自在に使う――演出で、開始早々に観客の心を鷲掴みにする。その姿は、深窓のお姫様でなく、「インディ・ジョーンズ」だ。
 お姫様に対するは、定番なら王子様なんだけど、こそ泥! しかも、自信家でちょいとアホ! 『プリンセスと魔法のキス』の王子様も駄目王子だったけど、今度は王子様ですらない。
 2人の出会いは最悪で、最初の頃、こそ泥のフリンはラプンツェルを疎ましく思っている。しかし、そこから相思相愛に至る道が面白いの何の。やはり「インディ・ジョーンズ」ばりの大冒険が繰り広げられる。
 基本的に物語はコメディ寄りで、そのコメディ要素を一身に背負うのは、フリン。特に、フリンを追いかける騎士団の馬、マキシマスとのやり取りは爆笑! というか、マキシマス最っ高! 馬のくせに、馬とは思えない演出だらけ。フリンを見失った時は、鼻を掃除機のようにして、犬ばりに地面の匂いをかぎ、追跡する。ラプンツェルに甘やかされた時は、これまた犬のように尻尾をブンブン振り、あご下を撫でられれば猫のようにゴロゴロする。馬面のくせに、超可愛く見える。もうね、馬じゃないから!
 フリンとマキシマスのやり取りの面白いこと面白いこと。ラプンツェルとのロマンスが始まらなくても構わない、と思うくらい爆笑の連続。ラプンツェルを助けるためにマキシマスがフリンに協力する際も、ちょっと感動できる場面なのに、やはり笑わせる。動物キャラが主要キャラの一角を担っているのはディズニーの定番だけど、ここまでコメディ寄りなのは今までなかった。マキシマスなしに本作なし、といっても過言でない。
 ディズニー映画でこれだけ爆笑した作品は、本作が初めて

 演出として素晴らしく貢献しているのは、3D効果。
 『アバター』以降、たくさんの3D映画が登場したけど、個人的には『塔の上のラプンツェル』が現時点で3D映画の最高峰だと思う。全体的に無理せず、自然に画面の奥行きを演出している。
 しかし、それだけなら「まあ良く出来た3D演出」で終わるんだけど、「この場面のために3D演出を選んだのか」と思わせるような場面がある。ラプンツェルとフリンが湖上のボートでランタンを眺め、共に歌う場面。2人のランタンが、正に手に届くと思わされるような近さに浮かんで見える。あれには感動した。劇場にいた観客が私1人だけだったなら、ランタンに触れるかと手を伸ばしてみたかも(他にも客がいたから恥ずかしくてできなかった)。
 3D字幕版、3D吹き替え版、2D吹き替え版と計3回を観て、声優の演技力、3Dの効果と合わせて3D吹き替え版が最も観易い。今まで3D映画の殆どは、2D版の方が楽しみ易かったんだけど、本作は3Dで観るべき作品だ。3D版を観た後では、2D版の方が寂しく感じるくらい。

 ディズニー定番のミュージカル演出は一応あるけど、5回くらいしかない。
 印象的なのは、冒頭と酒場「かわいいアヒルの子」(どこが!)でのミュージカル場面。この2つは、説明を兼ねており、だからとてもコミカル。冒頭のは、ラプンツェルのキャラ設定と現状を歌と踊りで一気に説明している。巧い。酒場では、荒くれ者共がラプンツェルの味方になる意外と良い奴揃いだってことがわかる名場面。あとは、塔の外へ出た時と、ランタンの場面。どちらも感情の発露として機能している。特にランタンの場面は、幻想的な映像と合わさり、ディズニー映画史上屈指の名場面になっている。
 ミュージカルは、やはり感情の発露であるべきだ。思わず歌い踊らずにはいられない――そうでなければ。しかし、ミュージカル場面の少なさは、「もうミュージカルなんて古臭い」という思いがあるのかもしれない。寂しいなぁ。
 字幕版より、吹き替え版の方が歌は良かったね。大抵は逆なんだけど、さすがはディズニー・クオリティ、吹き替え版でも遜色ない声優を選んでいる。
 声優といえば、中川翔子さんがラプンツェルの吹き替えを担当していて、これが物凄く巧い! 感情の起伏が激しいラプンツェルを見事に演じている。すぐにでも声優に職業変更できるんじゃないか、ってレベル。まあ、それはラプンツェルというキャラの良さがあってのことだとは思う。
 ただ、それだけ声優としては大成功しているのに、歌の吹き替えは別の小此木麻里さんが担当しているのは疑問。中川さんの声で歌も聴いてみたかった。
 ディズニー・アニメは字幕版よりも吹き替え版の方がレベル高い、ということが多くなってきた。他の配給会社も、吹き替え版を作る際は、このレベルを見習ってほしいものだ。

 全体的に高レベルでまとまっている本作だけど、欠点がないわけじゃない。
 途中までは最っ高に面白いのに、途中から突如として魅力が激減するのだ。理由は単純、ラプンツェルの髪を短くしてしまったから。城下町に入って髪を三つ編みにしてから以降、急激に魅力が下がる。中盤までの出来の良さには「これはディズニー最高傑作かも!」と大興奮する。CGとは思えなくくらいに美しく魅力的な髪の表現だっただけに、髪が短かくなると動きに面白味がなくなり、画面の魅力度が激減する。一言でいえば、普通。
 活劇場面の演出は本当に素晴らしく、宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』まであと一歩、というところまで来ている。その一歩は物凄く幅広な一歩なので、届くようでなかなか届かない。宮崎監督なら絶対に髪を短くはしなかった(まあ、長髪の娘なんて描くの面倒だし最初から設定しないだろうけど)。
 ミュージカルの場面も素晴らしく、画面の隅々まで活かして演出を設計しているのに、それ以外の場面は杜撰な作りになっているのが勿体無い。活劇場面でこそミュージカル演出をすべきだと思うのだけれど、大抵そうはしないんだよねぇ。TVアニメみたいな画面設計になっている場面がたくさんあって、それはアップの多さで、それが完璧なキメになっているわけでもないので、これまた勿体無いなぁ、と。
 あと、物語が、現代的な味付けをするため、原作であるグリム童話「髪長姫」とはかけ離れていて。ゴーテルは魔女でなくなり、単なる意地悪はオバサンでしかない。悪知恵だけで、魔法は使わないしね。王子様はこそ泥になり、ラプンツェルは積極的に活躍する。まあ、それはいいと思う。妙に大人向けな内容で作られても困る。それならば、どうせなら結末をもうちょっと工夫してほしかった。
 結末は、ラプンツェルの髪の性質を活かした展開で、最後の最期になってフリンが命をかけて侠気を発揮し、思わず「えっ!?」と驚くような展開がある。そのフリンの命を救うのは、古風な「愛は奇跡を起こす」で、結局そこは原作通りなのかぁ、と。
 また、ゴーテルは悪人扱いだけど、本当に悪い人なんだろうか? 18歳までラプンツェルを育てたのはゴーテルで、ならば、ラプンツェルがお姫様としての品格を失わずにいられたのは、ゴーテルの育て方が良かったからだ。それを、確かに犯罪者だし、若さのことばかり考えている姑息な悪人かもしれないけど、何もかもをなかったことにしてゴーテルを死なせちゃうのはどーなのかと。若さばかりが大切なものじゃない、とゴーテルを改心させる展開があっても良かった筈。それに、本当にゴーテルに愛情はなかったのか? そこは、面倒だったから考えなかったんだろうなぁ。
 ゴーテルの真相に気付き、本当の両親の存在と自分の真の姿に気付いたとはいえ、少なくとも気付くまではゴーテルのことを「お母様」と慕っていたのは事実なんだし、ゴーテルを軽々しく見捨てるラプンツェルで良かったのか。今のままじゃ、ラプンツェルは薄情な娘でしかない。「少女の自立」という側面もあるにはあるけど、結局は流されているだけ。ラプンツェルが愛と知恵で国を統べられるとは思えない。知恵なさそうだし。
 その場の勢いで色んなものが済まされているけど、細かい部分は結構テキトーで、詰めの甘さがある。オープニングで状況設定を説明しちゃうのも駄目だった。構成としては、最後の最後まで全部が回想、ってことだし。つまり、フリンが死なないのは最初っから説明されているんだよね。わかり易いけど、謎深く見せた方が面白かったと思うだけに、あの構成は失敗。

 多少の不満はあれど、ラプンツェルの魅力だけでなく、フリン、マキシマスなどの主要キャラ、脇を固めるキャラ、そのどれもに魅力があり、素晴らしく楽しめる。
 普通に年間ベスト級の傑作なんだけど、後味があっさりし過ぎていて、長い賞味期限ではない。最後の“あの瞬間”までラプンツェルの髪の長さを活かした画面作りができていれば、大傑作になれたのに。何としても髪を短くしない展開を考えるべきだった。そこだけが惜しい。

テーマ : 映画館で観た映画
ジャンル : 映画

tag : 塔の上のラプンツェル

2011-04-16

『雨に唄えば』は、画面から幸せ光線が乱れ撃ち

 <午前十時の映画祭>にて『雨に唄えば』を観ました。何十回も観ている作品ですが、初めて味わった大きなスクリーンと音響は、小さなTV画面とは比較にならない幸福感に満ち溢れていました。
 何十回も観ているわけですから、そりゃーもう、超大好きな作品です。何度観ても徹頭徹尾全く飽きず、むしろ観る度に感涙が止まりません。泣くような場面は全くないというのに、なぜか必ず泣いてしまいます。

 まず、ジーン・ケリーさんの躍動感溢れる素晴らしきダンス! 長い足! 逞しい腕! そして、笑顔でいるだけでロマンティックな雰囲気をまとうケリーさんの楽しそうな表情! ケリーさん主演の作品となると『雨に唄えば』よりも『巴里のアメリカ人』や『踊る大紐育』を推す人が多いかもしれませんが、私は断然『雨に唄えば』派です。
 最高に楽しいミュージカル場面ですが、少し振り付けが単調な部分はあります。似たようなタップ・ダンスが繰り返されたり、後半の夢想する場面は無駄に長いとも思います。思いますが、単調さはケリーさんの魅力でごり押しして隠しています。ケリーさんが世界の中心なんだといわんばかりに。
 カメラは、ケリーさんの大活躍には必ずケリーさんを中心にしています。世界の中心はケリーさんなのです。余計な編集もなく、心行くまで存分にたっぷりとケリーさんの踊りを楽しめます。

 ミュージカル映画でなくとも、マイケル・ジャクソンさんのPVやジャッキー・チェンさんの映画でも同じことなのですが、観たい場面を心行くまで存分にたっぷりに楽しませてくれないとストレスが溜まります(残酷映画に於けるゴア場面も)。
 チェンさんやジャクソンさんやケリーさんを好きな人がその作品を観る時、作品に対する期待の殆どは画面で活き活きと動き回るその雄姿をいかに心行くまで邪魔されずに存分にたっぷりと堪能させてくれるかにあります。物語は二の次。小技を効かせた編集なんかされていると逆にムカつきます。「大スターに対しては、真正面にカメラを構え、常に画面の中心で撮れ!」と。

 ミュージカル映画の名作・傑作に『ウエスト・サイド物語』があります。<午前十時の映画祭>で『雨に唄えば』の前に上映したのは『ウエスト・サイド物語』で、もちろんこれも観ましたが、途中で寝てしまいました。今までに十回は観ているのですが、最後までちゃんと観られたことがありません。必ず途中で寝てしまいます。ので、十回も観たくせに未だに『ウエスト・サイド物語』の物語の細部がよくわかっていません。いつも気付くと知らない間にトニーとマリアが相思相愛になっていたり、シャーク団とジェット団のリーダーが殺されています。TV放送用にカットされたような、謎の超展開です(寝ているからね)。
 毎回寝てしまうくらいですから、『ウエスト・サイド物語』は好きではありません。寝てるくせに何ですけど、悪い作品だと思います。音楽は間違いなく素晴らしいと思いますが、正直、「何でミュージカルにしなきゃならんのだ?」という思いをどうしても払拭することができません。
 やたらと長いタイトルでまず眠くなるのですが(実際、初めて観た時は寝た)、冒頭から悪ガキが踊る場面で白けてしまいます。ちょっと待て、何で悪ガキがあんなに清々しく踊るのだ、と。意味がわかりません。振り付けも面白くありませんし。カメラのアングルと編集で誤魔化しているだけで、躍動感ゼロ。踊るなら「ダンスで抗争」という平和的な話でもいいのに、物語そのものは現実的で、その演出だけをミュージカルにしているから面白くない。正直、何でこんな作品が今でも名作として称えられているのか理解できません。
 ソウル・バスさんの凝り凝りな画面デザインが足を引っ張っています。私にとってミュージカル映画は、編集に工夫がなくても構わないので、見事な歌や踊りを画面のど真ん中で見せてほしいのです。『ウエスト・サイド物語』は、工夫が凝らされた作品ですが、それゆえに映画としては全く面白くありません。大画面を活かしているとかいわれていますが、どこが? それならミュージカル要素なしに作った方が良かった。そうすると今度は物語の面白くなさが目立ちます。
 根本的には物語が稚拙で面白くないのも悪い。『ロミオとジュリエット』を何の工夫もなく下敷きにした物語は、無駄だらけでダラダラしています。そりゃー眠くもなりますよね。何よりも悪いのは、歌や踊りが物語に全く貢献していないことです。たとえばエミネムさん主演の『8 Mile』は、どん底の青春劇であると同時にヒップ・ホップの映画ですから、ヒップ・ホップが物語に貢献しています。『雨に唄えば』もそうです。踊りたくて踊りたくてしょうがない気持ちが画面に溢れています。ミュージカルである必然性は、踊りたくてしょうがない衝動が画面にあることです。それなしにミュージカル映画が成立することはありません。そうでないミュージカル映画は、ただ登場人物が踊っているだけの映画です。 

 『雨に唄えば』は、ケリーさんを中心に捉え、まるで世界がケリーさんに振り回されているような、ケリーさんによる遠心力で観ている私たちまで振り回されているような、そんな気分になる作品です。大スターとは、観る人を虜にするとは、そーゆーものだと思います。
 物語に対する演出も面白い。ミュージカル映画ですが、ミュージカル場面そっちのけで物語の展開が面白い。初のトーキー撮影に挑み、大失敗する件なんて大爆笑です。完全なドタバタ劇で、ミュージカル抜きに楽しい。ミュージカルであることと映画であることが違和感なく成立しています。
 映画史に残る有名な「雨に唄えば」の場面は、本当に見事で、撮影中に高熱を出していたことが信じられないくらいの名場面。私の友人は、『雨に唄えば』を観る前に「雨の中、傘を差さずにずぶ濡れになって楽しげに歌い踊るなんて異常だ。そんな気分は考えられない」といっていましたが、観てからは考えを変えました。むしろずぶ濡れになりたくなるくらい幸せな時があるわけです。何もかもが祝福してくれているような。

 幸せが溢れている――そうとしか形容できない作品です。
 東日本大地震の被災地で巡回上映してもらいたいと思いました。私は被災者の大変さをわかっていませんが、こんな幸せな映画なら、少しは元気を貰えるのじゃないかと。ただ物語だけを追っかけている映画にはできないことだと思うのです。

テーマ : 映画館で観た映画
ジャンル : 映画

2011-04-05

指さす先

 私の知人Aが仙台に住んでいて、東日本大地震に遭った――と思いきや、地震発生の前日に仙台から金沢に来ていて難を逃れました。そして同じ頃、知人Aの妹が金沢から仙台へ行こうとしていたのですが、兄が仙台から戻って来ていたので、やはり地震の前日に仙台行きを取り止めていました。兄妹でギリギリのところで難を逃れたわけです。
 この話を聞いた別の知人Bは、「神の意思を感じるわ」といいました。

 知人Bがいうように「神の意思」があるのでしたら、助かった知人Aは「神の意思」によって助けられたことになると同時に、助からなかった被災者は「神の意思」によって助からなかったことになります。もちろん知人Bは、知人Aに対して軽い気持ちで「神の意思」といっただけなので、被災者に対して「神の意思」が働いたとは思ってもいません。いませんが、「神の意思」理論でいえば、被災者は「選ばれて被災した」ことになります。
 「神の意思」があるのでしたら、もちろんその意思には意味がある筈です。天災にしろ人災にしろ、意味があって発生している筈です。意味もなく大量の人間を殺すなんて、そんな神様はいてほしくありません。しかし、昔のゲーム『ポピュラス』ではありませんが、ゲーム感覚で行使されただけの「神の意思」なのかもしれません。「ちょっとここら辺、ごちゃごちゃしてきたから、更地にするか」とゲーム・コントローラーのボタンが押されて発生したのが東日本大地震だったのかも。
 この世のあらゆる物事を知れば知る程、奇跡的なバランス感覚に満ち溢れ、ただただ世界の素晴らしさに驚嘆し、神様はいてもおかしくないな、と思ったりします。この世を設計した存在がいるのだろう――と。であれば、この世の何もかもは計画的に遂行されていると考えられます。日本からするととんでもない大災害である東日本大地震も、長い長い期間で見れば、そこに意味を見出すことは可能なのかもしれません。その意味は、「天罰」であるのでしょうか?

 石原慎太郎都知事は、東日本大地震に対して「天罰」だといいました。もちろん石原都知事が被災者に対して「天罰」といったわけでないことはわかり切っています。いますが、有名政治家たる者が安易に誤解を受ける発言をしてはいけません。都知事だからいいものの、これがどこかの大臣であれば確実に失脚するレベルの発言です。
 さて、石原都知事が想定する「天罰」を下す神様は、どのような神様なのでしょうか? たぶんキリスト教的な神様でなく、八百万の神様だと思います。何らかの神様が怒っていて、それを知らしめるために大災害を発生させたのだ、と石原都知事はいったわけですね。しかしそれは、「石原都知事が怒っている」のであって、「神様が怒っている」のではありません。なぜなら、神様が「天罰」を下すのなら、それは「天罰」であることが誰にとってもわかるようでないと意味がないからです。石原都知事からすると、今の日本には我慢ならない点が多くあり、そこへ発生した大災害だから、これは「天罰」だ、と思ったのでしょう。つまり、それは石原都知事の怒りでしかありません。神様が怒ったという証拠はどこにもないのです。

 イランの映画監督であるモフセン・マフマルバフ監督は、バーミヤンの仏像がテロリストによって破壊されたことを、「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」と表現しました。
 遠藤周作さんの『沈黙』は、イエスはなぜ苦しんでいる人々に救いの言葉を何も語りかけないのか、と問い質します。その答えは、ただ黙っているのではない、己の無力さに声を発することもできず、皆と一緒に苦しんでいるのだ、というものでした。
 マフマルバフ監督のは仏教で、遠藤さんのはキリスト教ですから、両者は異なる宗教なのですが、いっていることは似ています。私も感覚的に両者のいっていることに納得できます。
 またマフマルバフ監督はこんな感じのこともいっています。「仏像が苦しむアフガンを指さして崩れ落ちたのに、誰もそれを見なかった。愚か者は、指した先でなく、その指を見る」と。もしも「天罰」であるなら、それは神様の「意思表示」であるので、我々はその「指さす先」を見なければなりません。ところが、「天罰」といった当の石原都知事も「指さす先」を指摘することはありませんでした。皆から非難され、謝罪しただけ。「天罰」だと思ったのなら、はっきりと「天罰」だといえば良いのです。神様の意思表示は、神様ゆえに甚大な出来事を巻き起こすのだ、と。
 石原都知事も作家だったので、今回の大災害には創作意欲を掻き立てられるたまらない魅力があったかもしれません。マフマルバフ監督はさらにこんな感じのことをいっています。「あらゆる場所に、映画の題材がある。平和な街の何でもない片隅に、映画の題材がある」と。芸術家たるもの、色んな物事に魅力を見出してしまうのでしょう。素晴らしいことです。しかしその芸術家的思考ゆえに、「危険なアフガンで頑張る人々がいる。そこに映画の題材がある。そして、今にも死にそうな人々が辺り一面を覆い尽くしている。私は思ってしまう――ここにも映画の題材がある。私は、映画を辞め、他の仕事を探したいと思った」と苦しみます。

 この状況ですから、各地域で行楽イベントの自粛の話がよく聞かれます。被災地のことを思えばそうなるのも理解できますが、何もジャンジャカ騒ぐだけが行楽イベントではないと思います。被災地のことを考え、被災地では無理な行楽イベントを代わりに味わうのだと思えば、大騒ぎするわけではない、しっとりとした行楽イベントも可能でしょう。時にはそーゆーのもいいものだと思います。
 または、TV放送で、通常番組を再開した際に批判的な意見が集まったとも聞きます。テレビ東京は早めに通常番組を再開したからか、批判が多かったそうです。批判者が被災者なら理解できますが、そうでない人々が批判するのは過剰反応でしょう。
 もしも「神の意思」があって、皆が選ばれているのだとすれば、被災しなかった者には被災しなかった理由があり、それに値する行動を取る必要があります。被災しなかったからといって気に病んだり、負い目を感じたりする必要はありません。被災しなかったからできる行動を取れば良いだけのことです。問題になっている自粛行動がそれだとは思えませんが。

 私は、ちゃんと「指さす先」を見つめられているのか? 指先しか見ていないかもしれません。
 色んな映画を観て、「見る」という行為を重ねている筈なのに、余りにも杜撰に物事を見ることしかできていません。TVの災害報道を見ると、「見る」と「映す」は同じようなのに、全然違うことに気付かされます。
 被災者のアップ、悲しい顔のアップ、悲惨な場所のアップ、アップ、アップ、アップ……被写体に近付き、視点を明確にする。意外や意外、クリント・イーストウッド監督の『ヒアアフター』には、視点の明確さが欠けていました。たぶんそれが物語的な面白くなさとなり、評判が悪いのかもしれません。しかし、イーストウッド監督は「悲しい顔のアップ」だけを撮って感傷的になるようなことはしません。「指さす先」を撮っています。
 もしも、理解せずに指先しか見ていないのだとしたら、それは滑稽であると同時に物悲しいことです。

テーマ : 気になったニュース
ジャンル : ニュース

プロフィール

ばっどていすとさんどいっち

Author:ばっどていすとさんどいっち
テクノ好き。
アンダーワールドのRez大好き。
映画大好き。
ジャッキー・チェンが生涯の英雄。
生涯1位作品は『ミミズバーガー』。
2位が『溶解人間』。
泣き虫で、馬鹿。
itsuka-omoi-dasu-bts@hotmail.co.jp

最近の記事
プルダウンリスト
プルダウンタグリスト
ブログ内検索
ブログ全記事表示

全ての記事を表示する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。