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2011-11-22

『無常素描』は、本物の涙で出来ている

mujo
 『無常素描』を観ました。東日本大震災の茫々たる被災の姿を、ただただ無力に写し撮ったドキュメンタリー映画です。スクリーンに映される映像はTV報道で何度も何度も見ましたが、それでも圧倒され、何をも思えない。そこへ、読経が響きます。とある僧侶が登場します。芥川賞作家でもある玄侑宗久さんです。玄侑さんは、東日本大震災の姿を「無常」と表現しました。

 延々と続く崩壊後の世界。「第三次世界大戦後の世界」という設定のSF映画のようですが、奇麗にデザインされた様式はなく、あえていえば『マッドマックス』な風景。いつ「サンダードーム」が現れてもおかしくないような……とかいうと怒られそうですけど。何にせよこれは、観ていてワクワクするような特撮映像ではない。
 劇映画ならば、いくら凄い災害場面であっても、延々と映し続けることはありません。見栄えの良い空撮で一発ドーンっと見せ付けるくらいでしょう。しかし本作は、基本的に「人間の視点」で事物が語られます。走る車から撮られた、長回しによる終わりのない横移動の1ショット。カメラのアングルに次々と絶え間なく現れ続け、消え去る風景。思いを馳せる暇もありません。東日本大震災のことを全く知らない方が観たとしても、先に面白い展開が待っているかもしれない、なんて想像力は、それが現実であることを無言のうちに強調するショットにて粉砕されるでしょう。
 本作は、「素描」という題名通り、淡々と被災地の姿を映すだけ。声高にメッセージを叫ぶこともない。地震発生の映像も津波が襲ってきた映像もなし。あった筈のものがなくなっている姿を黙々と映すだけです。
 泥臭い映像にはしかし、全く別の映像を想い出させます。黒澤明監督の作品です。たとえば『七人の侍』。土砂降りの雨の戦闘場面、と対照的な朗らかに旗がはためく場面。『八月の狂詩曲』の最後、土砂降りの雨の中を進むおばあちゃんの場面。人間は地面に這いつくばってでも生きるしかなく、その上を軽やかに生きる風に人間は絶対に届かない。そんな哲学とでもいうか、泥臭い映像美学が黒澤監督作品にはあります。本作が映す、崩壊し、動かず停止してしまった世界に於いて、軽やかに動くのは風に揺れる物ばかりです。鯉のぼりや、ボロボロのビニール袋や。それはとても「世界」を感じさせます。

 印象的な場面は殆どありませんが(全部が印象的ではある)、忘れ難い場面はあります。

 海の近くに住んでいたという母娘が登場します。
 親が「海の近くはもう住みたくない」といっているのに、その娘は「でも、海が好き。海の近くに住んでみて下さいよ」と語りかけるます。その娘の顔。にこやかに話しながらも、虚脱する表情。
 その娘の微笑みが長く映されます。

 とても明るい元気な中年女性が登場します。
 しかし、テンション高くしていないとどうなるか……と呟きます。常に断崖絶壁の淵で生活しているような、恐怖と紙一重の感じ。

 瓦礫整理をしているお爺さんが登場します。
 息子さんがどうにかなったのか、話している最中に号泣します。涙が溢れ、鼻水と涎が垂れ、顔がグシャグシャ。全身で泣いています。もう何を話しているのか聞き取れない。しかし、深い深い悲しみがあることは伝わります。ここでカメラは、お爺さんの顔をアップにせず、すっと引きます。劇映画ならば役者の見せ場であろう泣き顔のショットを、本作は慎ましやかに撮ります。
 その後、離れた場所から映されるお爺さんは、カメラに向かって手を振ります。悲しみの中、どう思って手を振ってくれているのか、わかりません。揺れる手に、風に揺れる鯉のぼりを想い出します。その軽やかさ。

 どこかの壁に貼り出されたたくさんの写真が映されます。カメラがすーっと引くと、そこは体育館の壁であることがわかります。広々とした体育館の壁を覆う、たくさんの写真。そして、体育館の床には、行方不明になっている沢山のアルバムが箱に入れられて並べられています。失われた記憶の置き場。
 色んなものが流され、壊された方々が、残された記憶を手繰り寄せようと時間に流されない記憶(写真)を探しています。

 今ある形が常にあり続けるわけではない、という感じに私は「無常」を理解しています。東日本大震災の被災地の姿は、正に「無常」であるわけです。
 玄侑さんが本作で語る話に、ラオスは竹で橋を作っている、というのがあります。洪水が発生したら橋が壊れるので、それならば最初から壊れてもガッカリしないように、竹で簡単に作り直せる橋を作っているそうです。これも正に「無常」であるわけです。「無常」であることを理解すれば、被害は最小限に抑えられる……玄侑さんは、そんな社会も良いのではないか、と語ります。
 この世には絶対はない。だから、何もかもが壊されたなら、また作りなおすしかない。その気力があるかどうか、それだけが問題です。しかし、作りなおすことができたなら、前よりも良くなるに違いありません。その兆しはまだ作品に現れていません。

 移ろい行く姿は、普段の街にも見られます。ちょっと見ない間に街並みが変わっていることなんて日常茶飯事です。変わる前の姿を思い出そうとしても思い出せない。覚えておこうと思っても、すぐに忘れてしまう。声高にメッセージを叫ぶわけでない本作は、「この姿を覚えておこう」とだけ静かに強く主張します。それが終わりのないように思える、被災地の映像なのです。ミシェル・ゴンドリー監督によるケミカル・ブラザーズの「Star Guitar」のPVみたいに、ミニマルな。十年後には、「あの頃はこんなだったなぁ」と思いだすことになるでしょう。
 異常事態が発生し、未だ異常事態から抜け出せないでいる日々、それをどうやって記録するか、その最善な作品だと思います。ミニマルな変化の繰り返しで大きなうねりが作り出されていることを実感する、見事な歴史の切り抜きです。従って、本作の賞味期限はとても長いと思います。
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テーマ : 映画館で観た映画
ジャンル : 映画

2010-09-19

『シェラ・デ・コブレの幽霊』再び金沢市に出現

 9/17の20時から<カナザワ映画祭2010 世界怪談大会>が遂に始まった。『シェラ・デ・コブレの幽霊』野外上映が映画祭の幕を切って落とした。ええ、そりゃあもう盛大に。

 当日の午前中まで雨天で(前日は土砂降りだった)、ああこりゃ野外上映は無理だなぁ、と殆ど諦めていたのに、午後から雨が止み、その後は見事な晴れっぷりで野外上映は無事実施された。お天と様も『シェラ・デ・コブレの幽霊』を観たがっているのだな、と幸先の良さに感激した。思わずガッツポーズをとってしまうくらい、嬉しかった。
 しかし、さすがは『シェラ・デ・コブレの幽霊』、簡単には観させてくれなかった。

 雰囲気満点の野外で20時から上映が始ま――らなかったのだ、映写機トラブルや人的トラブルで上映時間がずれることずれること。
 「もうしばらくお待ち下さい」が何度も繰り返され、「直ったようなので上映を開始します」も何度も繰り返され、上映開始時刻が20時から20時半にずれ、さらに「あと何分とは明確にいえませんが、最善を尽くしております。もうしばしお待ち下さい」が何度も繰り返され、遂には上映開始時刻が21時になるとアナウンスされた。しかしそれでも上映は始まらなかった。
 遂には、映写機の調子が良くなったり悪くなったりを繰り返したため、良くなった時期を逃さないように、「次に映写機が直った時は、開始のアナウンスなしで上映を開始します」とアナウンスされた。いかに慌てているかよくわかる。しかし、上映開始されたと思えば、音声部分の速度が合ってなかったり、フィルムが逆だったりで、駄目だった。
 そんなこんなで21時、本当ならもう観終わっている時刻にまだ上映は開始されてなかった。野外に長い間待機させられているせいか、徐々に寒さが強くなってきた。風も強くなり、上映開始予定時刻だった20時から気温は確実に下がっていた。同じ姿勢でずっと地面に座らされていることもあり、足腰が疲れてくる。下手すると上映開始が22時になりそうなため、我慢できずに帰る観客もいた。もしかしたらこのまま上映できずに終わるかもしれない、と危惧された。
 映写機は結局、直らなかった。誰もが思っただろう。「さすがは『シェラ・デ・コブレの幽霊』だ、呪われている」と。曰く付きのフィルムでもないのに。
 映写機の復旧は諦め、別の映写機を用意することになった。映写のテントを眺めていると、シネモンド上野館長が映写機を運んできていた。しばらくすると、カタカタカタと映写機が調子良く動く音が聞こえ、「今から上映します」とアナウンスが入り、今度こそ本当に上映が開始された。上映までに1時間半近く待たされた

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テーマ : この映画がすごい!!
ジャンル : 映画

tag : カナザワ映画祭 シェラ・デ・コブレ

2010-07-08

『踊る大捜査線 THE MOVIE3』は、マリファナで推奨映画

 『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』を観た。
 前作から7年も経ったけど、ファンにすれば待ちに待った続編だ。私も『踊る大捜査線』はTV版から大好きで、携帯動画以外は、全て観ている。映画版第1作目が作られた時なんて、物凄くワクワクしたものだ。が、映画版は全て超駄作。ゆえに、映画は諦めてTVドラマとして戻ってきてもらいたかった。こちらとしてはいつでも続編を待ち望んでいるってのに、7年ぶりに現れたのはまたもや映画版。予告編から「死ぬ気になったら~」とか妙な意気込みを感じさせる台詞を覗かせ、ファンの期待を煽るどころか不安を煽る。
 果たして、不安は的中した。酷い。酷すぎる。ファンに対するプレゼントというより、嫌がらせのような作品だった。しかし、それゆえに、シリーズ最高傑作ともいえる。

 とにかく罵倒してもしたりないくらい、さすがフジの映画だなぁ、とその低クオリティぶりにむしろ感心する酷さだけど、ある場面からその評価はアクロバティックに全力で一転する。
 それは、小泉今日子さん演じる真奈美様を護送している場面。なぜか真奈美様の台詞にエコーがかかっている。いや、あれは軽いダブ処理ではないか。となれば、あの場面はマリファナをやりながら観るべきなのだろう。そういえば織田裕二さんが歌う主題歌「Love Somebody」はレゲエだ。その歌詞はこうだ(一部抜粋)。

あの日見た夢の続きを今も憶えているから
あてもなく過ごす日々をどうにかこうにか切り抜けた
大切な人を忘れないように生きるのも難しいさ
僕らはせめて同じ時代を生きていることを感じたい
僕をみつけた時から求め続けていることは1つだけ

また逢える日の約束をしよう
言葉が足んなくたって響き合ったね
同じリズムで
どんなに遠くに離れても
風に耳を澄ませば聴こえ続けている詩はひとつだけ
いつも負けないように 心に誓おう

むう、これは真奈美様に響く歌詞ではないか? 真奈美教の人々が大合唱していてもおかしくない。英語歌詞部分は、「誰かを愛そう、ずっと愛そう」と歌う。ねばねばねばねばねばねばねーばれっつらごー、だ。実は「Love Somebody」は真奈美様のテーマ曲だったんじゃないかと。
 無意味に杭で警察署の扉をガンガン叩く場面がスローモーションになるのも、実はダブなんじゃないか。

 もしかしたら、みんなでマリファナを吸って作ったのが『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』なのかもしれない。そう考えれば全ての辻褄が合う。物語がテキトーなのも、演出がテキトーなのも、マリファナのせいだ。そうそう、劇中で登場する謎の煙(毒ガス)もマリファナから連想したに違いない。副題の「ヤツらを解放せよ!」の真意は、「マリファナを解禁せよ!」と読める。
 何かハイテクな現代っ子を敵視しているのも納得だ。健康診断の話題ばっか使うのも納得だ。
 最後の最後で、健康であることが判明した青島が安心してタバコを吸うのも、実はタバコよりもマリファナの方が健康に良い、ということを暗に仄めかしているのかもしれない。何て深読みできる傑作なのだろうか!

 青島が真奈美様に「誇りがない」というけど、そりゃ本作を作っている関係者全員にいいたい台詞だ。でも、ま、別にいっかー。だってラリって作ったんだもん。どうでもいいよねー。
 誰が見ても駄作な本作、「何でこうなったのか?」が疑問だ。本広克行監督は、余談の余地がないくらいに駄目な監督だけど、それでも本当にこれで良いと思って本作を撮ったのか? 脚本の君塚良一さんは、本当にこれが面白い物語だと思っているのか? 疑問は尽きない。はっきりいって、本作は下手なミステリーよりも謎深い。マリファナが関係しているのか、いずれたぶん業界通の人が明かしてくれるだろう。「煙は会議室に充満しているんじゃない、現場に充満していたんだ!」とか。
 何もかもがテキトー極まりない『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』は、予想以上にヒットしないだろう。それは作品の出来が悪いからではない。日本でマリファナが合法化されていないからだ。マリファナの煙が充満する中で鑑賞すれば、『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』は、ダイアモンドの原石が輝くように評価を上げるだろう。
 上映時間が40分は長いと思うので、もっと挿話を減らせば面白さは普通程度には上がると思うけど、マリファナでラリって観ることを考えたら、2時間半の上映時間は短いくらいだ。青島が湾岸署の扉を杭でガンガン叩く場面が延々と1時間くらいあって、真奈美様の説教場面が延々と1時間くらいあったら良かった。もっともっと夢のようにテキトー極まりない映画になっていれば歴史的傑作となったのに。
 それでも、何十年経っても色褪せない貫禄のある駄作っぷりなので、映画館で楽しむべき。大ヒットしてほしいなぁ。

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テーマ : 映画館で観た映画
ジャンル : 映画

tag : 踊る大捜査線

2009-11-12

『THIS IS IT』は、最高の最終話

 マイケル・ジャクソンさんの遺作『THIS IS IT』を観た。全身全霊をかけて挑んだロンドン公演のリハーサル、生きていた最後の数日前までを映したドキュメンタリー映像となれば、それは遺作と呼んで問題ないだろう。

 はっきりいって、映画として観るものではない。映像的な喜びは全くない。音楽映画として、ライヴを最高の状態で切り取ったライヴ・ドキュメンタリーとして観るものでもない。音楽的な興奮も全くない。曲はぶつ切りだったりするし、リハーサルにすぎないので、マイケル・ジャクソンさんも全力で歌っていない。同様に、最高のパフォーマンスを楽しめる、ダンスの教科書的なものとしても価値はない。やはりマイケル・ジャクソンさんは全力を出していない。軽ぅ~く流している感じ。マイケル・ジャクソンさんの珍しい姿や発言を多数見られるわけでもないので、舞台裏のドキュメンタリーとしての価値もない。だから、マイケル・ジャクソンさんのファンでない人には単調極まりないと思う。

 『THIS IS IT』は、いうなれば、最高の第1話があって、途中が丸ごと存在しない、未完成の最終話だ
 物凄く想像力が豊かな人でもなければ、最終話だけを見てその作品が素晴らしいかどうかは判断できない。しかも未完成だし。だから『THIS IS IT』はファンでない人には何が良いのかさっぱりかもしれない。逆に、ファンにとっては想像力を最大に働かせて楽しむことのできる大傑作となる。
 ファンにしか、大傑作にできない。ファンにしか、この未完成作品を完成作品に到達させられない。映された映像の先、あった筈の未来に、想いを馳せ。

 最も素晴らしい、涙が溢れて止まらない場面は、最後の場面だ。
 曲が最高潮になる瞬間――音を止めさせ、自分の時間を楽しみたい、と指示を出す。ここが自分の世界なんだ、と。ジャケットのボタンをとめたり外したり、観客を見回したり、指を鳴らしたりして、ゆったりと時間を楽しみ――再び音を鳴らす。
 あの、マイケル・ジャクソン世界を演出する場面。日本のアーティストなら矢沢永吉さんなんかが似合いそうな、自分を魅せる演出のカッコ良さ。あの場面に「マイケル・ジャクソン」の全てが凝縮されていると思う。あの場面を最後の最後に持ってきたケニー・オルテガ監督の判断は素晴らしい。

 ここまで素晴らしい『THIS IS IT』だけど、物凄い不幸な作品でもある。最後のコンサートであるロンドン公演の映像だからだ。
 考えてみてほしい。マイケル・ジャクソンさんは、アメリカ人だ。アメリカで生まれて育って、人気を取ったアーティストだ。それなのに、なぜ、最後のコンサートがロンドンだったのか。ベスト・アルバムの『KING OF POP』もアメリカ版は発売されなかった。アメリカには、もう活躍する場がない、と思っていたんじゃないか? 保守的な白人社会では、もうマイケル・ジャクソンさんは不気味がられて、純粋に活躍できないと思っていたんじゃないか?
 保守的な人が多い場所では、マイケル・ジャクソンさんは受け入れられないのかもしれない。しかし、変身願望の具現化でもあるマイケル・ジャクソンさんは、人種や性別の関係なくハマることのできるポップ・スターだった。ある国や人種や性別に自己同一化ができなくても、マイケル・ジャクソンさんに自己同一化することは可能だ。だからというわけでもないだろうけど、黒人社会は最後までマイケル・ジャクソンさんを擁護していた。黒人は意外と今でも白人的になろうとする人が多い。マイケル・ジャクソンさんみたいに肌を白く、というわけじゃなくて、髪をストレートにするとか、その程度だったりするんだけど。誰でもない誰かの代表。誰にでもない誰かのために歌われる――ポップスには、そーゆー側面がある。その最高峰に立っていたのが、マイケル・ジャクソンさんだ。最高峰すぎて人間の域を超えてしまってる感もあるけど。
 日本ののりピー被告報道を見ていてもわかるけど、ポップ・スターは歪みの象徴だ。自己同一化の歪み。そんなスターが健全なわけがない。マイケル・ジャクソンさんはその歪みを全面的に受け入れ、かつ最高の形で具現化しようとしていた。そして、崩壊した。
 ジャクソン5の頃から人種を問わず皆を魅了し――つまり与えるだけ与え、次第に奪われるだけ奪われるようになり、遂には居場所がなくなってしまった。それが、ロンドン公演であり、『THIS IS IT』の正体でもある。『THIS IS IT』で再三登場するマイケル・ジャクソンさんのエコなメッセージには辟易するけど、それだって歪みの結果ではないだろうか?

 完璧で最高のステージを構築しようと頑張る姿、それをマイケル・ジャクソンさんは見せる気はなかったろう。しかし、期せずして『THIS IS IT』の形となり、地に足の着いたマイケル・ジャクソンさんを見ることができ、「単なる変人」でないことがわかるようになった。最後の場面で、いかにマイケル・ジャクソンさんがポップ・スターであろうとしてるかが、とてもとてもよくわかる。
 歪みを全て受け入れるような世界的なポップ・スターは、もうマイケル・ジャクソンさんで最後になるだろう。単なるリハーサル映像にすぎないけど、ポップ・スターであろうとしている世紀のポップ・スターの姿を見るために、特に最後の場面のためだけにでも、観に行く価値のある作品だ。できれば、ソフト化されるまで待たずに、可能な限り設備の良い映画館で観た方がいいと思う。

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tag : ThisIsIt

2008-12-21

『252 生存者あり』はサブプライムな結末の映画

 『252 生存者あり』を観た。想像を絶する駄作だった。だったけど、駄作っぷりに感動するくらいの駄作は久々なので、むしろ観る価値はある。いや、絶対に必見!

 内容は、東京が巨大台風に襲われる大パニック映画――ではなく、数人のこじんまりとしたトラウマを物語る、地味ぃ~な小パニック映画
 はっきりいって、物語はどうでもいい。重要なのは……次々に現れるクライマックス場面! そもそも開始からいきなりクライマックス! 凄い! 明らかに編集を間違っている!!
 まずアバンタイトルがあるんだけど、緊迫感のあるやかましい音楽が流れ、クライマックスの如き盛り上がりなのだ(実際は何にも盛り上がらないけど)。
 なぜか地下に閉じ込められた人々が鉄パイプで壁を叩いている。叩くことで生存者がいることを知らせ、救助を求めているようだ。しかし、何度叩いても反応がない。パイプを持つ掌はボロボロ。そこへ、主人公を演じる伊藤英明さんが現れ――画面は暗転。壁を叩く音だけが響き、真っ暗な画面には、叩く振動によって揺れる水面がCGで演出され、その後にタイトルが現れる。この叩く回数が律儀にゆっくりと2回、5回、2回と行われ、その度にCGがゆらゆら~と揺れて、「いつまで続くんだーっ!」とイライラさせられる。まさかそのイライラ感が全体的なものとは、開始直後は思いもしなかった……
 
 物語は2日前に戻って始まるんだけど、戻っても全く何の説明にもなっていないのが素晴らしい。それならアバンタイトルなくてもいいのに。「前代未聞の巨大台風が接近している」という説明だけで十分なのに、登場キャラの説明のために無駄な場面がたくさん続く。というか、この時点で温水洋一さんがウザい役立たずキャラで登場するんだけど、パニック映画の定石として、こーゆー役立たずキャラが最後に役立つ……かと思ったら、最後の最後まで全く何の役にも立たない。何のために存在してるんだ! 脚本家(または原作者。あ、同じ人か)はアホだね。
 基本的にパニック映画は『ポセイドン・アドベンチャー』を手本にすれば良い。限られた(観客が飽きない長さの)上映時間内に多彩な登場人物の説明と物語の展開を見せるには、本当に教科書のような映画だ(ちなみに『ポセイドン・アドベンチャー』の上映時間は2時間以内。『252 生存者あり』は2時間13分)。教科書的なのは、登場人物に無駄がないから。物語を展開するのに必要不可欠、かつ盛り上げるために必要不可欠な最低限の登場人物が用意されている(豪華俳優陣ではあるけど)。しかし『252 生存者あり』には、無駄で邪魔な人物しかいない。恋愛要素がないのがせめてもの救いか。

 登場人物の設定が色々と間違っているけど、それ以外にも映画の演出として色々と間違っている部分がある(というか、間違ってない部分が少ない)。

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テーマ : 映画館で観た映画
ジャンル : 映画

tag : 252 生存者あり

2008-12-14

『崖の上のポニョ』は大傑作だけど、時代遅れ

 宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』を観た。宮崎監督、老いてますます盛ん、そういいたくなる大傑作だ。ここに至り、遂にジャン=リュック・ゴダール監督と同じような域に到達している。

 物語は単純。魚の女の子・ポニョが人間の男の子・宗介に恋をして、頑張って人間になる話。捻りも何もなく、そのまま。あまりにそのまますぎて、異常な映画になっている。
 異常な点その1、色んなものが説明されない。特に登場人物。描かれていない裏設定があることだけは窺い知れる。ポニョが魚のくせにハム好きなのも、ちゃんと理由があるのかもしれない。
 その2、ポニョのせいで大災害が発生しているのに、誰も動揺せず、のんきに過ごす。
 その3、色んな展開が色んな段取りをすっ飛ばしている。一言でいうと、『週刊少年ジャンプ』の打ち切り漫画みたい
 全体的にいえることは、物語的に超手抜き。普通の映画(物語)なら取る手続きを完全無視し、作者の都合の良いような展開だけで構成され、アイデアがただ連なっているだけの、流れのある物語というよりは要素だけで構築された、ムチャクチャな映画だ。普通なら、間違いなく駄作になっている。そう、普通なら。『崖の上のポニョ』は、駄作要素しかないのに大傑作となっているのだから、物凄い。宮崎監督だからこそ、できることだろう。

 『崖の上のポニョ』を、物語・展開はそのままに、他の監督が作ったなら、間違いなく駄作になっている。どんなつまらない話でも、名監督が作れば傑作になる――そーゆー不遜さが『崖の上のポニョ』、ひいては宮崎監督にはある。だから『崖の上のポニョ』は、物語より、演出の映画だ。というか、宮崎監督の映画は、昔から演出の映画だった。
 宮崎監督作品の質は、たぶん殆どの人が感じているだろうけど、『もののけ姫』から著しく変わった。兆候は『紅の豚』からあったし、『魔女の宅急便』もかなりおかしな映画ではあったけど。決定的だったのは『千と千尋の神隠し』だ。伏線も何もかもをすっかりなかったことにして、ハッピーエンドになる健忘症な映画だった。そして『崖の上のポニョ』は、前衛の域に近付いている。
 『崖の上のポニョ』を常識論で批判するのをよく見たけど、宮崎監督は常識論や論理性なんて気にしちゃいない。例えば『映画秘宝』のように細かく揚げ足取りをすることは可能だし、それは正しい指摘なんだけど、常識論や論理性で『崖の上のポニョ』を批判することに意味はない。そーゆー批判が通用するのは、常識論や論理性を“売り”にしている映画だけだ。宮崎監督は、ショットで語る。だから批判するなら、技術論しかないのに、批判者の殆どが常識論だ。

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tag : 崖の上のポニョ

2008-09-25

『接吻』は理解を拒んだ傑作

 小池栄子さん主演の『接吻』を観た。正直いって、大して期待していなかったんだけど、驚いた。出だしから震えるくらいの、傑作ぶりだった。余りにも狙った傑作ぶりなんで、粗探しをしたくなるくらいに。で、粗は見つかったのかというと――

 「映画とは、見たことのない、現実的でない物事を見せてくれるもの」が持論の私としては、『接吻』の物語は正直、「またか」とうんざりする類型的なものだった。方向性としては、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』や『ハネムーン・キラーズ』のような物語だ。
 引きこもりの青年が、自己中心的でわがままな理屈から見知らぬ一家を殺害する。同じく、殆ど引きこもり一歩手前の女性が、殺人青年が逮捕される報道番組を見て、殺人青年に一目惚れする。 
 殺人青年と普通の会社員の女性という、決して交わることのない2本の線が、殺人青年の弁護士というもう1人の登場人物によって3本の線となり、絡み合う。弁護士によって面会を重ねる毎に、殺人青年と女性の距離は縮まる。面会室という狭い部屋、ガラス壁1枚に隔たれたその距離が、何の障害でもないように。
 しかし、殺人青年と何の関係もない女性が面会できるのは、殺人青年に死刑判決が出るまで間。判決が下されれば、もう逢えない。それならば、と女性と殺人青年は獄中結婚を断行する。それが幸せな結末を迎えることがないのは明白なのに。

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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

tag : 接吻

2008-09-16

『It is Fine! Everything is Fine.』は、世は全てこともなし

 カナザワ映画祭のクリスピン・グローヴァーさんのビッグ・スライドショウ2日目は、1日目以上に濃い内容だった。いや、たぶん差はないんだろうけど、1日目が余りにも「何じゃこりゃ?」だったから、2日目は慣れた分、普通に楽しめ、濃密に感じたんだと思う。
 といっても、スライドショウは、やっぱわけわかんねぇ。初っ端の「Egg Farm」は面白かった。何が面白いのかと訊かれても答えようがないんだけど、いうなれば吉田戦車さんのシュールなギャグ漫画だ。ただ「えっぐ・ふぁーむ!」て叫んでるだけなんだけど、「いや、自分ちだ。いや、やっぱ養卵場だ!」……わけわかんねぇ! でも、何か妙に面白いのは、グローヴァーさんのパフォーマンスが面白いからだ。
 スライドショウの内容は、1日目と同じ本(ネタ)に新作が混ぜられた6作品。1日目に柳下毅一郎さんによる日本語字幕を一生懸命読んでも意味がわからないことを学んだので、グローヴァーさんのパフォーマンスが大袈裟になる時以外は、殆ど字幕を読まないことにした。「Around My House」も単純で面白かった。ただ、全体的にもう少しウィリアム・バロウズさんっぽくコラージュしてあれば、もっと面白くなるかも。
 で、思った。グローヴァーさんのスライドショウ、フジTVの『爆笑レッドカーペッド』に出したら意外とウケるんじゃないか? フリップ芸人が今は多くいるし。もう中学生とかに近いような近くないような……

 前座(?)が終わって、精神的に妙な疲れがたまったところで始まった『It is Fine! Everything is Fine.』は、疲れを吹き飛ばすくらい、面白かった。何か「疲れを吹き飛ばすくらい」と表現すると爽やかな娯楽映画っぽいけど、実際は『What Is It?』以上にセクスプロイテーションの世界。しかし、映画としての構成は、『What Is It?』よりもちゃんとしていた。フィルムノワールだった。サムシング・ウィアードっぽいのは何も変わらんが。
 物語は、脳性麻痺を患っているスティーヴン・C・スチュアートさんの猟奇サスペンス。つか、ロングヘアーの女性になぜかモテるスチュアートさんが、その女性とセックスして殺す物語。そしてそれは、スチュアートさん自身の脳内妄想の具現化。だからサスペンス的ではあるけど、ファンタジーでもある。

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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

tag : カナザワ映画祭 クリスピン・グローヴァー

2008-09-14

『What is it?』は正に何じゃこりゃ!?

 カナザワ映画祭のクリスピン・グローヴァーさんのビッグ・スライド・ショウを観た。
 ビッグ・スライド・ショウ自体は、まあ、何というか、グローヴァーさんがいかに面白い人であるかがよーくわかるショウだった。正直、意味がわからん内容だったが、非常に面白かった。つか、面白いか面白くないか、それだけしか判断基準がない。
 映画の『What is it?』も、これまた噂に違わぬとんでもない映画だった。題名通り、本当に「何これ!?」としかいいようがない。ダウン症の人々の愛憎劇とカタツムリの物語。

 ダウン症といったら、『八日目』を真っ先に思い付く善良な映画ファンである私にとっては、とんでもなく刺激的なアウトサイダーアートだった。いうなれば『八日目』を下世話な方向にフルスロットルでかっ飛ばして、デビット・リンチ監督的味わいを大さじどころかちゃんこ鍋で山盛りに加えたような映画だ。
 前にも書いたけどアレハンドロ・ホドロフスキー監督やリンチ監督の前衛さと、グラインドハウス的というかドライブイン・シアター的というか、とんでもなくやっすい仕上がりが前衛さと伴って妙な不気味さというか不安を駆り立てる。
 選曲センスや音楽の使い方は殆どリンチ監督だった。ミュージシャンは、アントン・ラヴェイさんだった。あと、チャールズ・マンソンさんとか。ラヴェイさんって、詳しくは知らないけど、悪魔教か何かをやりつつ音楽活動もしてた人だったような。オルガンの変なCDがあったの知ってるんだけど、『What is it?』のエンドクレジットに流れてたのがそれなのかな? マンソンさんは、マンソン・ファミリーのマンソンさんか? シャロン・テートを殺し、ヘルター・スケルターを目論んだ、あの。はっきりいって、音楽的には最高にカッコイイ映画だ。どれだけ差別的な内容の音楽だとしても、魅力的であることは否定できんだろ。選曲したのはグローヴァーさん自身のようだ。サントラがあれば迷わず買ったのになぁ。

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テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

tag : カナザワ映画祭 クリスピン・グローヴァー

2008-07-27

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の完璧なカルト映画ぶり

 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を観た(観たのは結構前だけど、もうすぐDVDが発売されるし)。私にとってポール・トーマス・アンダーソン監督は、『ブギーナイツ』で惚れ込み、死ぬまで追い続けようと決心した監督だ。だから、かなり贔屓目に見てしまうが、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は掛け値なしに素晴らしい。本当の大傑作。映画史上に残る名作。

 しかし、完璧な映画だと思うけど、映画の“形”はいびつだ。欠陥だらけ、といってもいい。そもそも、物語らしい物語がない。強欲な男の一代記。それだけ。
 強欲な男の一代記といえば、『ゴッド・ファーザー』や『スカーフェイス』、一代記じゃないけど『グッドフェローズ』なんかを真っ先に想起してしまうが、『ゴッド・ファーザー』シリーズは惨めな終わり方になり、マーティン・スコッセシ監督も明らかに失速し、ハワード・ヒューズさんを描こうとして大失敗。『ギャング・オブ・ニューヨーク』でも光っていたのは結局、助演のダニエル・デイ=ルイスさんだった。そのルイスさんは、今までの最高の演技で『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を魅せる。観終わった後では、ルイスさん以外に主演は考えられない。
 強欲な独裁者である主人公は、当然のように孤独だが、人の温もりを欲しているようでもある。息子をゴミのように捨てたかと思えば、深い愛情はあるし、平気で人を殺すけど、それは主人公にとっての正義であるし……善なのか悪なのか判然としない複雑なキャラクターである主人公を、ルイスさん主演にアンダーソン監督は、真っ向から超ど真ん中の古き良きハリウッド映画的な演出で撮った。『ハードエイト』とも『ブギー・ナイツ』とも『マグノリア』とも『パンチドランク・ラブ』とも異なる、新しい顔を見せた。ロバート・アルトマン監督とスコセッシ監督とブライアン・デ・パルマ監督の影響がやたらと強かったけど、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、『パンチドランク・ラブ』に続く、アンダーソン監督の、誰でもない、そして他に類を見ない、新しい顔だ。そこにあるオリジナリティは、やはりハリウッドスタイルであっても、反ハリウッドだった。
 長大で重厚な叙事詩、そして完璧なメジャー映画であり初めから名作の風格を備えたハリウッド映画といってもいいのに、実際はカルト映画。『マグノリア』と『パンチドランク・ラブ』も“まとも”な映画とはいえなかったけど、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はさらに輪をかけて“まとも”な映画でない。

 開始早々、レディオヘッドジョニー・グリーンウッドさんによる音楽が鳴り響く。不協和音のサイレンのような音楽が。これから始まる物語は普通でない、そんな警鐘を響かせる。「奏でられる」でなく、「鳴る」。グリーンウッドさんの音楽もまた、完璧だ。
 雄大な自然と、溢れ止らず枯れぬ強欲を象徴する石油。主人公は、他者を搾取し、石油を出させ、時には血も溢れさす。全編、異様な緊張感が張り詰めている。夜と闇。石油。血。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、“暗い”映画だ。黒色を基調としている場面が多い。だから白色は、やたらと目立つ。印象的な“光”は、夜か闇を切り裂くようにしか“現れない”。主人公の「強欲」もまた、“黒色”なんだろう。黒色を基本とした人間にとって、不吉なものは白色なのだ。
 文学的で叙事詩的なメジャー映画なのに、その佇まいは、フィルム・ノワール。オーソン・ウェルズ監督、ハワード・ホークス監督、ビリー・ワイルダー監督、ジョン・ヒューストン監督……アメリカの名匠たちを彷彿とさせる。そして、フィルム・ノワールときては忘れてはならない、デビット・リンチ監督。アンダーソン監督は、それら名匠と並んだといって過言でない。娯楽映画のくせに“形”がいびつな点も似ている。後半は殆どホラー映画だ。最後に至っては、『グッドフェローズ』や『アンタッチャブル』の円卓会議でのロバート・デ・ニーロさんの場面を超える緊張感がある。

 名作の誉れを既にまとっているけど、カルト映画として映画史に残るだろう。その点では『ゴッド・ファーザー』とは異なるし、同じカルト映画でも『スカーフェイス』や『グッドフェローズ』と微妙に異なる。見た目は普通なのに、座ってみると妙に座り心地が悪い椅子。そんな妙なズレがある映画だからだ。
 そんな味わいがある。そんな映画を作るアンダーソン監督は、私よりも2歳年上なだけなんだよなぁ。凄い。

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2007-09-20

シェラ・デ・コブレの幽霊は果たして……

 今回観た『シェラ・デ・コブレの幽霊』は、一般公開向けのフィルムではないので、字幕がない。おかげで馬鹿な私には、登場人物が何を喋っているのかわからない部分が多々あった。フィルム所持者である添野知生さんが、解説だけでなく、英語に自信のない人用に粗筋も書いたチラシを作ってくれていたので、どんな物語かは理解できたが、細かいところは台詞をちゃんと聴き取るしかない。ので正直、ちゃんとした感想を書くには、私は力不足だ。まあそれでも、チラシの粗筋と、何とか聴き取れた部分で物語の展開には着いて行けたし、何よりも映像の力の凄さは見れば理解できるので、いっか。
 物語は、題名からわかるように、幽霊譚だ。

 主人公は著名な建築家。副業で心霊探偵もしている。そこへ、母親の幽霊に悩まされているので調査してほしい、という依頼が訪れる。毎晩、死んだ母から、すすり泣き声だけの無言電話がかかってきて、精神的に限界だ、と。
 依頼人の母は生前、埋葬されることを極度に恐れ、棺桶の蓋を開けっ放し、傍に依頼人への直通電話を置くように遺言を残していた。実際、納骨堂に行くと、蓋は開き、電話が置いてあった。しかも、今さっきかけたように、暖かい。そこへ、母と思われる禍々しい姿の幽霊が現れ、依頼人は気を失ってしまう。
 失神したまま主人公の家に運ばれ、そこで目覚めた依頼人は、壁に自分の故郷の絵が飾られていることに気付き、驚く。昔、その故郷では女の幽霊による殺人事件があった。主人公は、その捜査をしたことがあった。また、依頼人の家政婦も、その故郷出身だった。故郷の名は、シェラ・デ・コブレという。
 主人公が依頼人の家へ行くと、また幽霊に遭遇する。シェラ・デ・コブレ、女の幽霊、主人公、依頼人、家政婦、符合することが多い。幽霊は本当に母親なのか? シェラ・デ・コブレで何があったのか?
 その答えは、『シェラ~』を観てのお楽しみ――

 といっても、観ることが困難なわけだけど。
 はっきりいって、ショボイ。噂に名高く、観た人にもれなく「最も恐ろしい」と言わせしめる恐怖映画は、大したことなかった。まあ、40年も昔の白黒のTV作品が今もとんでもなく恐ろしいとなると、今の映画は何をやってんだ、てことになる。ショボくて当然。特撮技術だって音響だって演出だって、もっと凄いのが今はある。ただし、それは今の作品と比較してのこと。時代が移ろいでも真の価値というのは変わらない。『シェラ~』には、今のホラー映画の原点といえるような凄さがある。
 例えば、幽霊が現れる時には、女性の悲鳴と嬲り殺される豚の悲鳴を合わせたような、何とも形容し難い変な効果音が唸りを上げていて、これが大変に気分悪い。爆音上映だったら、『悪魔のいけにえ』のチェーンソーの唸りに匹敵するだろう。幽霊の姿は、骸骨と腐乱死体を合わせたようで、よくわからんが不気味。これが母親の幽霊だってんなら、相当酷いことをされて怨みを晴らしに来たとしか思えん。犯人は依頼人に決まっている。
 40年も昔にこれがTV放送されることを想像すると・・・・・・確かに恐ろしすぎる。今の作品でいうと、『呪怨』や『悪魔のいけにえ』や『エクソシスト』を超える怖さを与えたと思う。まだモンスターや宇宙人が幅をきかしていた頃に、『シェラ~』は今のホラー映画のテクニックを使っていたのだ。視聴者を怖がらせるテクニックを思いつく限り使った結果、禍々しいまでに凶悪な作品が完成したのだろう。そりゃあ放送も見送られるわ。

 果たして伝説の恐怖映画は、伝説通りだった。今観ると大して怖くない。でも、今観るからこそ、凄いと思える。間違いなく、傑作だ。

 ちなみに添野さんは、広くみんなに観てもらえるよう、フィルムのDVD化を考えているそうだが、超えるべき壁がいくつもあり、大変らしい。『シェラ~』を観られたのが駅前シネマに来ていた数十人で最後とならないよう、是非とも頑張って頂きたい。DVDになれば字幕も吹き替えも付くしね。

当ブログ内の関連記事:
当ブログ内→カナザワ映画祭2007・青いオトコまつり 覆面上映
当ブログ内→カナザワ映画祭2010で『シェラ・デ・コブレの幽霊』が再上映!!


自主上映を実施した「ホラー映画向上委員会」の感想:
ホラー映画向上委員会→シェラ・デ・コブレの幽霊(1965)

「探偵ナイトスクープ」にて『シェラ・デ・コブレの幽霊』の名を全国に轟かした功労者の体験記:
鴫野2.0→幻のホラー映画を求めて…

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プロフィール

ばっどていすとさんどいっち

Author:ばっどていすとさんどいっち
テクノ好き。
アンダーワールドのRez大好き。
映画大好き。
ジャッキー・チェンが生涯の英雄。
生涯1位作品は『ミミズバーガー』。
2位が『溶解人間』。
泣き虫で、馬鹿。
itsuka-omoi-dasu-bts@hotmail.co.jp

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