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2011-11-01

『ジェニンの心』は、壮大な幸せを願う小さな旅路の物語

jenin
 『ジェニンの心』を観ました。
 パレスチナとイスラエルの難しい大問題を扱ったドキュメンタリー映画です。といっても、歴史や政治社会の勉強を行うわけではありません。問題は単純。たった1人の男の子を巡る物語です。

 ある時、ヨルダンにあるジェニン難民キャンプに住む男の子がイスラエル軍に撃たれてしまいます。オモチャの銃で遊んでいたところを、本物の銃を持っていると誤認されたのです。男の子はイスラエルの病院で脳死と診断され、父親は臓器提供を勧められます。父親は悩んだ末、臓器提供を承諾します――提供先がイスラエル人であることを知った上で。
 男の子の名は、アハメドくん。その臓器が、6人のイスラエル人に渡ります。普通なら憎しみで臓器提供なんてしたくもないイスラエル人に、なぜアハメドくんの父親は提供を許したのか。
 イスラエル軍による大規模な攻撃は、ニュースでよく知られていることです。ジェニンの難民キャンプもメチャクチャにされ、ガザではもっと多くの死傷者が出ました。パレスチナとイスラエルの確執は、そんな事態が当然であるかのように続いています。それを止めるには? 目には目を? 惨劇には惨劇で。武力と武力の対決。それは復讐の連鎖。永遠に終わりのない。
 では、アハメドくんの父親イスマエルさんは、聖人の如きお方なのでしょうか? いえ、これも闘いだったのです。最も過酷な。
 息子の復讐を誓って自爆すれば、イスラエル人は喜ぶだろう。息子の臓器によってイスラエル人の命を救えば、彼らは驚くに違いない。そんな闘いの道もある。
 イスマエルさんは、そう語ります。そして、息子の臓器が与えた影響を確かめに――和平へのきっかけにならないか、そんな期待もして――イスマエルさんは臓器提供先を訪ねます。

 ある2つの家族は、心よりの感謝を捧げ、イスマエルさんを歓迎します。またある2つの家族は、匿名を希望し、登場しません。臓器提供の甲斐なく、亡くなった少女も1人いました。そして残り1つの家族――この家族との対面が本作のクライマックスとなります。
 アハメドくんの臓器提供を受けた娘を持つ、エルサレムに住むユダヤ教徒の家族は、明らかにイスマエルさんの訪問を歓迎していません。そもそもそこの父親はパレスチナ人からの臓器提供自体を快く思ってないのです。せっかくの対面もギスギスした雰囲気。
 娘の父親は、とりあえず世間話をと、ジェニンの近況をイスマエルさんに尋ねます。状況は酷いものだ。こないだも2人死んだ。すると娘の父親は、「それなら引っ越したらどうだ?」と提案します。仕事だってないだろ、と。それが簡単にできるなら、とっくの昔にしているでしょうに。雰囲気はさらに悪化。娘の父親は発言の拙さをイマイチ理解していません。
 せめてものお礼にと、娘の父親はイスマエルさんにお土産を渡します。渡されたものは、日本ならお饅頭が20個くらい入ってそうな、そんな大きさの箱。息子の臓器提供をして、返ってきたのは、理解のない言葉と、命の大きさに見合わない小さな箱。イスマエルさんは帰り際、その「お礼」を忘れそうになり、娘の父親から、お土産を忘れないで、と改めて手渡されます。一時も早くここから去りたい、そんな悲しさがイスマエルさんから溢れていますが、イスマエルさんは娘を抱き寄せ、息子の一部が元気に動いていることを慈しみます。

 帰路に着く車の座席に置かれた「お礼」をカメラは映しますが、その中身を映すことはありません。開かれないまま無造作に置かれた「お礼」。その中身が何なのかはわかりません。
 相手はこんな人だと決め付け、互いを知ろうとしないこと、それが色んなものを隔て、柔らかく結ばれることを拒絶しています。しかもその拒絶は悪意によってではなく、無知や無関心によってであり、時としてそれは善意から発せられます。イスマエルさんは、それを痛感します。
 簡単なことの筈なのに。冗談のように殺された息子の死に尊い意味を与えようとして、その闘いは今のところ大成功には至っていません。イスマエルさんは観客に訴えます。もっと考えてほしい。もっと願ってほしい。無知や無関心こそが何よりもの大敵なのだ。
 そもそもイスラエルに入国することすらなかなか叶いませんでした。イスラエル軍によって殺され、複数のイスラエル人を救った「息子」と逢いたい、そんな想いも政治の前には無力。アハメドくんは、所詮はたかが1人の子供であり、単なる臓器提供者に過ぎず、社会に影響なんて与えられない。アハメドくんが命を救った娘の父親からも理解されない。むしろ疎ましがられる。
 「お礼」は、忘れ去られたかのように画面から消え、そのまま最後まで登場しません。

 ドキュメンタリーは、映されたものより、映されなかったものに意味があります。映そうと思えば「お礼」の中身を映せたのに。だから、ちょっと登場してすぐに消え、そのまま忘れ去られる「お礼」に本作の意義が表れています。映画として見れば、見事な小道具の使い方です。
 が、作品としてはイマイチ。前半がとてもダラダラしていて……最後にイスマエルさんが視聴者に向かって直接的に訴えるのもいかがなものかと。いや、それだけ大切な問題で、是非ともみんなに共有してもらいたい問題なのだ、というのはわかります。わかりますが……せっかくの面白いスキャンダラスな題材を真面目に扱いすぎ!
 最後に会うユダヤ教徒の家族とのギスギス感がなければ、本作は作品として成り立たなかったでしょう。イスマエルさんの心に届かない「お礼」があったからこそ、見事な作品となったのです。ユダヤ教徒の家族がとっても良い方ばかりで、イスマエルさんが心よりの歓待を受けていたら、単に良い話として終わっていました。それはそれで良いことですけど……世の中に訴える作品としての魅力は薄かったでしょう。狙ったような展開だったと思います。
 一般的な娯楽作品としての面白さ――マイケル・ムーア監督作品みたいなもの――を期待しなければ、とっても考えさせられる良い作品です。考えれば考える程、消えた「お礼」の存在は見事です。

 とっても良い内容なのに、簡単に観られないのが問題です。せっかくのイスマエルさんの訴えも、少数にしか届きません。ネットで低画質版を視聴できるようにするくらいしても良いのに。
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テーマ : 映画祭
ジャンル : 映画

2011-10-24

『君を想って海をゆく』は、感動を避けた無常の感動作

kimiomo
 『君を想って海をゆく』を観ました。
 フランスを舞台に、クルド難民の困難を描いた作品です。紛争中のイラクから3ヶ月間も歩いてフランスまで来た少年ビラルは、イギリスへ密航を試みるが、警察に見つかり、失敗。ならば、フランスのカレーからドーバー海峡を泳いでイギリスへ行こうと決心。季節は冬。波はあるし、流れは速いし、水温は10℃以下。監視船だって通る。泳ぐ距離は、直線距離なら34kmだけど、この状況下ではもっと長くなる。プロの水泳選手だって10時間は泳ぎ続けなければならない。大変だ。それに何より、ビラルは泳げない。果たして無事にイギリスへ辿り着けるのか?

 物語は、密航を試みるところから始まります。その描写は、初めて見るものでした。
 ビラルら密航者は、幌で覆われた荷台を持つ輸送トラックに忍び込み、運転手に気付かれずにこっそり目的地まで運ばれようとします。幌の屋根に登り、ナイフで幌を切り裂き、中に入る。その際に重要となる装備が、ビニール袋。コンビニなんかで貰える、中サイズのものです。荷台に忍び込んだ密航者は、誰もがそれを大事に抱えている。密航仲間がビラルに説明します。息は幌の外に吐け。でなければ、頭から袋を被り、決して吐く息を漏らすな。
 密航者たちは、検問所に着くまで貨物の上に乗り、切り裂いた幌の隙間から、外に息を吐きます。検問所に着くと、切り裂いた幌を粘着テープで補修し、ビニール袋を被ります。吐く息を漏らさないよう、袋の口を、自分の首を絞めるようにして握る。荷台の外では、警察犬を連れた警察がたくさんいます。警察は、荷台に密航者がいないか検査します。しかし、いちいち幌を開けたりしません。細長い棒状の二酸化炭素検知器を幌の隙間から差し込むだけ。だから、吐く息を漏らすな、とビラルは説明を受けたのです。ビラルも急いでビニール袋を被りますが、パニックを起こし、ビニール袋を取ってしまい、あえなく検知されてしまいます。
 二酸化炭素検知器で荷台に潜む密航者を見つけようとし、密航者は対策としてビニール袋を頭から被って息を漏らさないようにする。そんな駆け引きが行われていることを初めて知りました。荷台をちゃんと確認した方が確実に見つけられるのに、それをしないということは、効率を優先しなければならないくらい密航者がいる、ということです。そこら辺の事情が全くわかっていない観客にも一発で社会状況がわかる重要なシークエンスでした。
 逮捕されたビラルは、祖国が混乱状態であるため、送還されずに保釈されます。ビニール袋が被れないから、密航に陸路は駄目。お金もない。そこで、海を泳いで行こう、と思うわけです。

 主人公はもう1人います。水泳コーチのシモン。妻マリオンと離婚調停中のしょぼくれたオッサンですが、元メダリストという輝かしい歴史を持っています。何となく生きる気力のなさそうなシモンは、ある日、無様な泳ぎをしている青年からコーチの依頼を受けます。それがビラル。
 マリオンは、難民救済のボランティアをしています。だからシモンは、俺ってボランティア~んな良い漢なんだぜ、ということをマリオンに見せ付けるためだけにビラルを自宅に泊めます。その際、ビラルの人柄を知ります。サッカーが得意で、走るのが速い。夢はマンチェスター・ユナイテッドに入ること。ロンドンに恋人ミナがいて、逢いに行くこと。
 マリオンに良いところを見せようと思ってビラルを泊めたシモンですが、逆にマリオンからたしなめられます。政府は取り締まりを強化している。難民を助けただけで逮捕される。警察が私のところにも事情聴取に来た。難民に係わるのはもう止めて。
 シモンはビラルにいいます。海峡を泳いで渡るのは無理だ、と。しかし、ビラルは泳ぎの練習を止めません。ミナに逢うために、どんな困難も乗り越えるつもりです。

 全体的に淡々としていて、説明が少ない作品です。登場人物の設定は小出しに語られますが、多くは語られません。金メダリストだったシモンがなぜ今しょぼくれているのか、シモン夫婦がなぜ別れることになったのか、ビラルの実家や家族はどうなっているのか、ミナの家族とビラルの関係はどうなっているのか、等々は語られません。しかし、重要な要素はしっかりと、的確に説明しています。
 1つ目は、ビニール袋。シモンの自宅に泊めてもらえた際、ビラルは風呂場でビニール袋を被る練習をしています。シモンにその現場を発見され、ビラルは、過去に受けた悲惨な体験から、恐怖で袋を被れないことを語ります。ビニール袋は、トラックによる密航では必要な道具として、シモン宅ではビラルの悲惨な過去として、そして後半の場面で素晴らしく効果的に使われます。
 2つ目は、指輪。マリオンは、結婚指輪を紛失した、と悔やんでいます。しかし、ビラルを自宅に泊めようと寝る部屋を整えている際、ソファの隙間に指輪が挟まっているのをシモンは発見します。その指輪を、ビラルに渡します。これをミナに渡せ、と。この指輪も最後に別の使われ方をされます。
 3つ目は、互いを想っているのに結ばれない関係。シモン夫婦は互いにまだ思慕の念があるのに、なぜか別れることを選んでいます。シモンはしかし、まだ強く未練があるようで、それゆえに周囲の反対を無視してまでビラルを応援しようとします。自分は目前の妻を手放そうとしているのに、ビラルは命を懸けて恋人に逢おうとしている。しかしそのミナにも事情があり、ロンドンに移住できたはいいけど、見合い結婚を父親から迫られており、もうそれは回避できそうにない。だから、ビラルには逢いに来てほしくない、と思っているのです。
 そして、壁。

 本作を貫いているのは、大きな障壁です。ビラルにとっての海峡は、物理的な壁として物語を盛り上げます。しかし、難民問題を扱っている本作の「壁」は、様々な場所に存在する無理解や無関心ではないでしょうか。誰かを理解しようとして、理解できない。または理解してもらえない。関心すら抱いてもらえない。そんな壁。
 シモンにもマリオンにもビラルにもミナにも、逃れようのない壁があり、どこまでもその壁が続いているようです。本作で唯一、ビラルだけがその壁に果敢に挑み続けますが、その壁は、海ではなく、世の中の無理解や無関心であるため、ハッピーエンドにはなりません。なってはならないのです。

 お涙頂戴に堕することなく、伝えようとしていることを伝えている良い作品だと思います。全ての「説明」を映画的躍動によって語り、台詞で長々と心情を吐露することで悲哀を誘う愚は避けられています。登場人物の誰もがどんな人なのか明確に「説明」されません。何となく、この人はこんな人なんだろうなぁ、と思わされる程度。その劇的でない感じが素晴らしい。
 2時間以内に上映時間が収まっているのも良い。政治的でややこしい話ですから、もっとメロドラマにすると軽く2時間半にはなります。上映時間を見ても、ばっさりと下手な感動を避けているのがわかります。
 痛いような、感動するような、微妙な按配の作品です。少し奇麗にまとめ過ぎている感もあり、その破綻のないところが欠点かもしれません。それでも必見、そして記憶に残る作品だと思います。

 たーだーし、邦題はメロドラマのようで、駄目。原題は、『WELCOME』。シモンがビラルを泊めたことを隣人が警察に通報するのですが、その隣人の玄関前には、「WELCOME」と描かれたマットレスが敷いてあります。そこからずっと物語が進み、最後の場面――ビラルの夢だったマンチェスター・ユナイテッドの試合がTVから流れ、歓声に包まれる中、無常を感じるシモンの姿に暗転。初めて題名が現れます、「WELCOME」と。つまり原題は、全く否定的な「WELCOME」を意味しているわけです。邦題は、その意思を台無しにしています。少しでも多くの人々に観てもらいたいから、メロドラマっぽい邦題を考えたのでしょう。でしょうけど、作品の意思を伝える手段の1つとして題名があるのですから、安易な方法に走るべきではなかったと思います。
 作品自体は良かっただけに、そこが惜しいな、と思いました。

テーマ : 映画館で観た映画
ジャンル : 映画

2011-05-24

『ジャッカス3D』は、良い子を育てたい親に推奨映画

jackass
 『ジャッカス3D』を観ました。
 バカには二種類のバカがいます。憧れてしまうバカと、憧れないバカです。「ジャッカス」の皆様は前者です。あの方々が素晴らしいのは、誰もがやらない下らなくバカらしいことを行っている点です。その点で「ジャッカス」の皆様はダントツです。

 「誰もがやらない下らなくバカらしいこと」は、「反教育的である」や「反社会的である」と批判されます。しかし、なぜそれが批判されるかというと、それが実は「誰もがやりたくてもやれないこと」だったりするからです。
 笑ってもらうために「下らなくバカらしいこと」をするには、ただ「下らなくバカらしいこと」を行えば良いわけではありません。やってみたいけどやれない、みんなが思っているそーゆーことを行ってこそだと思います。実はやってみたいと思っていてもそこに踏み込めない――そのようなことを代わりに色々と、想像以上の出来で行ってくれるのが「ジャッカス」の皆様です。

 本作は、ビーバスとバットヘッドによる超バカな3Dの説明から始まります。本編が始まる前から溢れんばかりのバカを楽しめます。
 それに続いてオープニング・タイトルが始まります。3Dを意識して作ったからか、映像が奇麗。ピクサーのアニメでも観ているのかと思うくらい、高解像度でくっきり色鮮やか。メンバー紹介も兼ねているので、映ってるのはバカだらけですけど。また、高速度撮影されており、木っ端微塵に飛び散る小魚、揺らめく肉体、弾ける絵の具などの動きを存分に楽しめます。しかも3Dですから、それらが飛び出して見える。オープニングの美しさはシリーズ最高です。泣けます。
 オープニングが終わると、エンディングまで片時もアクセルを緩めることなくバカなことが続きます。

 「ジャッカス」の皆様には基本にスケーター精神がありますので、「下らなくバカらしいこと」のくせに、成功した時、何かカッコイイ。これはスケートボードで階段の手すりなんかを滑り降りる行為に似ています。それがウンチを火山噴火のように噴出させることであったとしても、成功した時には、純粋な驚きから、思わず「すげぇっ!」と感嘆してしまいます。
 日本のお笑い番組でも「下らなくバカらしいこと」はよく行われていますが、その大半は罰ゲームとして行われます。お笑い芸人自身は、笑ってもらえるから嬉々として行っているのでしょうが、視聴者から苦情が寄せられるからか、建前は「罰ゲームで嫌々やってる」となっています。ゆえに、カッコ悪い。
 しかし、「ジャッカス」の皆様には建前が不用です。「ジャッカス」の皆様は、「お笑い芸人」でなく、純粋に「バカ」だからです。嬉々として自ら危険な「下らなくバカらしいこと」に飛び込みます(嫌々なのも一部ありますが)。それが成功した時にはみんなで大はしゃぎ。だからカッコイイ。そこに「憧れてしまうバカ」が表現されています。なろうと思ってもなれない孤高の純粋さ。いや、まあ、単なるバカなだけなんですけど。

 本作で最も好きだったのは、「オナラで楽器を鳴らす」やつです。先っぽがくるくると巻いてあって、吹くと「ぴゃー」て伸びるおもちゃの笛を吹くのです。その「ぴゃー」て伸びるのが3Dで飛び出して見えるのです。超下らないのですが、丁度コーラを飲んでいる時だったので、口と鼻からコーラを「ぶはっ」と噴き出してしまい、酷い目に遭いました。
 前述しました「ウンチが火山噴火のように高く噴き出す」やつも最高でした。最初は何が噴出したのかわからないように撮っており、種明かしをされて「実はウンチだった」とわかる小粋な演出が見事でした。「ウンチが火山噴火のように高く噴き出す」様子を見られることは、人生何十年と生きている人でも滅多にないチャンスと思います。見たくないかもしれませんが。
 クライマックスは、「簡易トイレのバンジージャンプ風ウンチカクテル」です。本作で最も見応えのある下品で汚くてバカな映像でした。あれこそ「やりたくてもやれない」、「下らなくバカらしいこと」の代表格でしょう。
 球を玉で受け止めたり、酒場で小人同士の乱闘が始まると止めに来た警官が小人なら駆けつけた救助隊も小人で周囲が唖然とするってドッキリがあったり、体を張ったバカネタは他にも色々とあり、必ず1つはお気に入りのバカネタが見つかります。

 今や、YouTubeを見れば「下らなくバカらしいこと」を嬉々と行っている人々をたくさん確認できます。できますが、やはり「ジャッカス」の皆様はそれらより数段の高みにいます。責任を持って「下らなくバカらしいこと」を行い、みんなの期待を背負っている点に於いて素人と一線を画します。
 もっと下らなく、もっとバカに。期待を背負って邁進するバカ道。子供の将来の夢に「バカ」が加わっても良いと思うくらいです。誰かを笑うのではなく、笑われる中心でありたい、と願うような。

 本作の最後には意外や感動があります。エンド・クレジットがまた素晴らしい(その前にあるお約束の大爆発も)。ウィーザーの「Memories」に合わせて「ジャッカス」の皆様の幼少時代の映像が映るのですが……あんな可愛い少年たちがこんな腐った大人になるとは。時の流れは残酷です。だから、「Memories」の歌詞に感動してしまいます。歌詞はこんな感じ(意訳の上に抜粋)。

俺らは自分たちが何やってんのか大して自覚してなかった
自分たちと、今まで歩んできた人生に間違いはないって信じてたんだ

今、俺には面倒を見なきゃならないたくさんの人がいる
いつ店に食べ物を買いに行けっていわれるかわからないし
赤ん坊の泣き声が聞こえるし
芝刈りもやらなきゃ
リズムに乗らないとやってけない
だって、めちゃくちゃ退屈なんだよ!

思い出は、昔に戻りたいと思わせる
全ての思い出が昔に戻りたいと思わせる
そこへ戻るにはどうすればいい?
もう一度そこへ帰りたいんだ

これを「ジャッカス」の皆様も熱唱するのです。感動しないわけがない! 平凡な自分にできないことをやる「ジャッカス」の皆様には憧れます!

 映画館で大勢のバカどもと爆笑しながら観たい、そんな最高の作品でした。とはいえ、この手の作品は後で作られる作品の方が過激度が上がりますから、「歴史上に長々と残る大傑作」とはいえません。まあ、瞬間風速だけが強みなところも「ジャッカス」らしくて最高です。

テーマ : 映画館で観た映画
ジャンル : 映画

tag : ジャッカス

2011-04-25

『塔の上のラプンツェル』は、髪の長さがそのまま魅力度に

rapunzel
 『塔の上のラプンツェル』を観た。
 謳い文句として「ディズニー・クラシックス50作目」や「3Dで描かれる初のお姫様物語」があり、いわば記念的な作品なのに、丁度良い肩の力の抜け具合で、笑いと感動とロマンスが絶妙の配分で混ざり合った傑作となっている。

 物語は、昔ながらのお姫様物語なんだけど、展開と演出に現代味があり、全く古臭くない。ディズニー久々の真っ当なお姫様物語かと思いきや、かなりの変化球。前作の『プリンセスと魔法のキス』も変化球だったけど。ディズニー定番の動物のお供なんて、カメレオンだし。
 お姫様である主人公のラプンツェルの風貌がまず面白い。21メートルもある長髪という設定の時点で画面的には勝ったも同然。髪をズルズルと引きずりながら画面を横切る場面なんて、いつまで経っても髪の端が映らないから、その長髪ぶりに笑ってしまうくらい。冒頭のミュージカル場面からその長髪が存分に活かされており、その美しさと面白い――髪の毛を道具のように自由自在に使う――演出で、開始早々に観客の心を鷲掴みにする。その姿は、深窓のお姫様でなく、「インディ・ジョーンズ」だ。
 お姫様に対するは、定番なら王子様なんだけど、こそ泥! しかも、自信家でちょいとアホ! 『プリンセスと魔法のキス』の王子様も駄目王子だったけど、今度は王子様ですらない。
 2人の出会いは最悪で、最初の頃、こそ泥のフリンはラプンツェルを疎ましく思っている。しかし、そこから相思相愛に至る道が面白いの何の。やはり「インディ・ジョーンズ」ばりの大冒険が繰り広げられる。
 基本的に物語はコメディ寄りで、そのコメディ要素を一身に背負うのは、フリン。特に、フリンを追いかける騎士団の馬、マキシマスとのやり取りは爆笑! というか、マキシマス最っ高! 馬のくせに、馬とは思えない演出だらけ。フリンを見失った時は、鼻を掃除機のようにして、犬ばりに地面の匂いをかぎ、追跡する。ラプンツェルに甘やかされた時は、これまた犬のように尻尾をブンブン振り、あご下を撫でられれば猫のようにゴロゴロする。馬面のくせに、超可愛く見える。もうね、馬じゃないから!
 フリンとマキシマスのやり取りの面白いこと面白いこと。ラプンツェルとのロマンスが始まらなくても構わない、と思うくらい爆笑の連続。ラプンツェルを助けるためにマキシマスがフリンに協力する際も、ちょっと感動できる場面なのに、やはり笑わせる。動物キャラが主要キャラの一角を担っているのはディズニーの定番だけど、ここまでコメディ寄りなのは今までなかった。マキシマスなしに本作なし、といっても過言でない。
 ディズニー映画でこれだけ爆笑した作品は、本作が初めて

 演出として素晴らしく貢献しているのは、3D効果。
 『アバター』以降、たくさんの3D映画が登場したけど、個人的には『塔の上のラプンツェル』が現時点で3D映画の最高峰だと思う。全体的に無理せず、自然に画面の奥行きを演出している。
 しかし、それだけなら「まあ良く出来た3D演出」で終わるんだけど、「この場面のために3D演出を選んだのか」と思わせるような場面がある。ラプンツェルとフリンが湖上のボートでランタンを眺め、共に歌う場面。2人のランタンが、正に手に届くと思わされるような近さに浮かんで見える。あれには感動した。劇場にいた観客が私1人だけだったなら、ランタンに触れるかと手を伸ばしてみたかも(他にも客がいたから恥ずかしくてできなかった)。
 3D字幕版、3D吹き替え版、2D吹き替え版と計3回を観て、声優の演技力、3Dの効果と合わせて3D吹き替え版が最も観易い。今まで3D映画の殆どは、2D版の方が楽しみ易かったんだけど、本作は3Dで観るべき作品だ。3D版を観た後では、2D版の方が寂しく感じるくらい。

 ディズニー定番のミュージカル演出は一応あるけど、5回くらいしかない。
 印象的なのは、冒頭と酒場「かわいいアヒルの子」(どこが!)でのミュージカル場面。この2つは、説明を兼ねており、だからとてもコミカル。冒頭のは、ラプンツェルのキャラ設定と現状を歌と踊りで一気に説明している。巧い。酒場では、荒くれ者共がラプンツェルの味方になる意外と良い奴揃いだってことがわかる名場面。あとは、塔の外へ出た時と、ランタンの場面。どちらも感情の発露として機能している。特にランタンの場面は、幻想的な映像と合わさり、ディズニー映画史上屈指の名場面になっている。
 ミュージカルは、やはり感情の発露であるべきだ。思わず歌い踊らずにはいられない――そうでなければ。しかし、ミュージカル場面の少なさは、「もうミュージカルなんて古臭い」という思いがあるのかもしれない。寂しいなぁ。
 字幕版より、吹き替え版の方が歌は良かったね。大抵は逆なんだけど、さすがはディズニー・クオリティ、吹き替え版でも遜色ない声優を選んでいる。
 声優といえば、中川翔子さんがラプンツェルの吹き替えを担当していて、これが物凄く巧い! 感情の起伏が激しいラプンツェルを見事に演じている。すぐにでも声優に職業変更できるんじゃないか、ってレベル。まあ、それはラプンツェルというキャラの良さがあってのことだとは思う。
 ただ、それだけ声優としては大成功しているのに、歌の吹き替えは別の小此木麻里さんが担当しているのは疑問。中川さんの声で歌も聴いてみたかった。
 ディズニー・アニメは字幕版よりも吹き替え版の方がレベル高い、ということが多くなってきた。他の配給会社も、吹き替え版を作る際は、このレベルを見習ってほしいものだ。

 全体的に高レベルでまとまっている本作だけど、欠点がないわけじゃない。
 途中までは最っ高に面白いのに、途中から突如として魅力が激減するのだ。理由は単純、ラプンツェルの髪を短くしてしまったから。城下町に入って髪を三つ編みにしてから以降、急激に魅力が下がる。中盤までの出来の良さには「これはディズニー最高傑作かも!」と大興奮する。CGとは思えなくくらいに美しく魅力的な髪の表現だっただけに、髪が短かくなると動きに面白味がなくなり、画面の魅力度が激減する。一言でいえば、普通。
 活劇場面の演出は本当に素晴らしく、宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』まであと一歩、というところまで来ている。その一歩は物凄く幅広な一歩なので、届くようでなかなか届かない。宮崎監督なら絶対に髪を短くはしなかった(まあ、長髪の娘なんて描くの面倒だし最初から設定しないだろうけど)。
 ミュージカルの場面も素晴らしく、画面の隅々まで活かして演出を設計しているのに、それ以外の場面は杜撰な作りになっているのが勿体無い。活劇場面でこそミュージカル演出をすべきだと思うのだけれど、大抵そうはしないんだよねぇ。TVアニメみたいな画面設計になっている場面がたくさんあって、それはアップの多さで、それが完璧なキメになっているわけでもないので、これまた勿体無いなぁ、と。
 あと、物語が、現代的な味付けをするため、原作であるグリム童話「髪長姫」とはかけ離れていて。ゴーテルは魔女でなくなり、単なる意地悪はオバサンでしかない。悪知恵だけで、魔法は使わないしね。王子様はこそ泥になり、ラプンツェルは積極的に活躍する。まあ、それはいいと思う。妙に大人向けな内容で作られても困る。それならば、どうせなら結末をもうちょっと工夫してほしかった。
 結末は、ラプンツェルの髪の性質を活かした展開で、最後の最期になってフリンが命をかけて侠気を発揮し、思わず「えっ!?」と驚くような展開がある。そのフリンの命を救うのは、古風な「愛は奇跡を起こす」で、結局そこは原作通りなのかぁ、と。
 また、ゴーテルは悪人扱いだけど、本当に悪い人なんだろうか? 18歳までラプンツェルを育てたのはゴーテルで、ならば、ラプンツェルがお姫様としての品格を失わずにいられたのは、ゴーテルの育て方が良かったからだ。それを、確かに犯罪者だし、若さのことばかり考えている姑息な悪人かもしれないけど、何もかもをなかったことにしてゴーテルを死なせちゃうのはどーなのかと。若さばかりが大切なものじゃない、とゴーテルを改心させる展開があっても良かった筈。それに、本当にゴーテルに愛情はなかったのか? そこは、面倒だったから考えなかったんだろうなぁ。
 ゴーテルの真相に気付き、本当の両親の存在と自分の真の姿に気付いたとはいえ、少なくとも気付くまではゴーテルのことを「お母様」と慕っていたのは事実なんだし、ゴーテルを軽々しく見捨てるラプンツェルで良かったのか。今のままじゃ、ラプンツェルは薄情な娘でしかない。「少女の自立」という側面もあるにはあるけど、結局は流されているだけ。ラプンツェルが愛と知恵で国を統べられるとは思えない。知恵なさそうだし。
 その場の勢いで色んなものが済まされているけど、細かい部分は結構テキトーで、詰めの甘さがある。オープニングで状況設定を説明しちゃうのも駄目だった。構成としては、最後の最後まで全部が回想、ってことだし。つまり、フリンが死なないのは最初っから説明されているんだよね。わかり易いけど、謎深く見せた方が面白かったと思うだけに、あの構成は失敗。

 多少の不満はあれど、ラプンツェルの魅力だけでなく、フリン、マキシマスなどの主要キャラ、脇を固めるキャラ、そのどれもに魅力があり、素晴らしく楽しめる。
 普通に年間ベスト級の傑作なんだけど、後味があっさりし過ぎていて、長い賞味期限ではない。最後の“あの瞬間”までラプンツェルの髪の長さを活かした画面作りができていれば、大傑作になれたのに。何としても髪を短くしない展開を考えるべきだった。そこだけが惜しい。

テーマ : 映画館で観た映画
ジャンル : 映画

tag : 塔の上のラプンツェル

2010-04-05

『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』は、父親の気持ちを味わえる

 『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』を観た。オタクアニメ映画連続鑑賞第3弾! 『劇場版 Fate/stay night - UNLIMITED BLADE WORKS-』、『涼宮ハルヒの消失』同様、評判が良かったので観ようと。
 「Fate」はPCゲーム版『Fate/stay night』をやっていたから物語と設定は全て理解していたし、「涼宮ハルヒ」はTVアニメを見てどんな作品かは概ね知っていたが、今度の「リリカルなのは」は、全くちっともさっぱり知らないで観た。フェイトってキャラが出るから『Fate/stay night』と関係あるのかと思ったくらい、無知な状態。わかっていたのは、題名に「魔法少女」とあるから、「魔法で変身する少女が主人公の物語」ってことくらい。よくわからんが「セーラームーン」や「プリキュア」みたいなもんなんだろうな、と。ただ、同じ「魔女っ子もの」でも、昔々の「魔女っ子もの」とは違うだろうし、「リリカル」なんて題名にあるけど『姫ちゃんのリボン』みたいな少女漫画とも絶対に違うだろうってのは、ポスターの「格ゲー」的な絵柄を見てわかっていた。

 物語は、典型的な最近の「魔女っ子もの」。変な動物が魔法世界の住人で、それを助ける過程で魔法少女になっちゃって、何か重要なものを集める手助けをするために戦う、ってやつ。今さらすぎて、またか、と思う。物語や設定に斬新さがないなら、キャラクター造形の強度はどうか。
 『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』は、物語を戦闘に特化している。変身ヒロインになるきっかけや過程はどうでもよくて、変身して戦って、ライバルキャラのフェイトが現れて戦って、フェイトと友達になろうとしてまた戦って、フェイトを助けるためにさらに戦って、遂にはフェイトと手を組んで戦って、友達になってハッピーエンド。
 物凄い端折りっぷりに、「ああ、これは総集編なんだ」ということがよーくわかる。また、私みたいな無知状態で見ても、いわゆる「魔女っ子もの」がどんなものなのかはわかっているから、特に説明がなくても戸惑ったりしないくらいの典型ぶり。
 典型的であるからか、とても古臭い。キャラの動き、敵のデザイン、演出、みーんな古臭い。十年以上昔のアニメを見せられているのかと思った程。何で今さらこんなものが人気あって映画にまでなっているんだ? キャラ造形の強度が上がっているとも思えない。キャラデザは全員、顔が似たり寄ったりだし、髪型がもっさりしていて前髪が触覚みたい。高町家の人々を見た時、特に「うわっ、古臭っ」と思った。同時に、古臭さの理由がわかった。「リリカルなのは」は少年漫画っぽい。

 基本的に「魔女っ子もの」って女子向けコンテンツで、当然ながら女子の願望が反映されているのに(潜在的な男子願望だったりもするけど)、「リリカルなのは」にはそれが全くない(超極端な『少女革命ウテナ』みたいな作品もあるけど)。「リリカルなのは」は男子向けすぎる。変身場面の露骨なサービスショットや、フェイトの折檻場面が、ではない。『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』は、とっても「熱血」だ(女子だって「熱血」好きだけど)。
 「リリカルなのは」の主人公は題名通りなのはなんだろうけど、『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』の主役はフェイトだ。なぜフェイトが悲しい気持ちで望まぬ戦いを繰り広げているのか、フェイトと母親、仲間、それぞれの背景描写と心情が丁寧に描かれており、それはなのはに関する描写を大きく上回る。フェイトの描写なしにフェイトとなのはの友情物語を2時間程度で描くことは難しいから、なのはに関する描写は省いてでも、フェイトに感情移入できるように多くの描写をフェイトに割いている。
 なのはなんて、命がけでフェイトと友達になろうとする理由がわかる描写は数カット程度。TVアニメ版を観てないと理解できないのかもしれないけど、そこは「典型的作品」なだけに、推測で補填。なのははとっても優しい家族に育てられ、素直で優しい娘に育ち、ゆえに他人の痛みや寂しさも理解できる――と。「だからって、友情を芽生えさせるために死闘を繰り広げるかぁ?」とは思うけど、そこは典型的な熱血物語だから気にしちゃいけない。
 女子向けコンテンツであれば、ライバルキャラは男子が好ましいような気がする。恋愛感情を芽生えさせ、それぞれが所属する集団が対立するゆえに『ロミオとジュリエット』みたいな典型的な展開になって。しかし、『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』は恋愛要素を避けている。そんなもの余計だとばかりに。それはとても納得できる。アクション映画とか観ていると、「何でここで余計なラブシーン入れてんだよ!」とかイラつくことがよくある。『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』は、熱血友情ロマン物語なので、男女の恋愛感情なんていらん。あるとしても、それは、百合だ!

 ところで、「リリカルなのは」と同じ「魔女っ子もの」の『カードキャプターさくら』の映画版第2弾である『カードキャプターさくら 封印されたカード』には、「あなたに伝えたい、本当の想い」という惹句があった。『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』のは、「伝えたいことが、あるんだ」。文章は似ているけど、その内容が全く違うということが面白い。前者は異性間、後者は同性間。どちらも熱血な戦闘場面があるけど、目指すところが全く異なっているし、見終えた感覚も全く異なっている。
 フェイトは、実の母親に虐待され、母親のいうがままに戦ったのに、「失敗作」と烙印を押し付けられ、それでも母親に感謝と思慕の気持ちを伝える。が、母親は鬼畜のような人でなく、母親には母親の譲れない想いがあり、それも本当に優しい想いなのに、ちょっとしたすれ違いにすぎないのに、過去に囚われたままの母親は、フェイトを見捨ててしまう。母親は、最期に正しい想いに気付くが、フェイトに想いを伝えられないまま終わってしまう。その先に幸せな未来が待っていたかもしれないのに、母娘として失敗したまま終わってしまう。
 辛い物語だけど、フェイトの不屈の精神があってこそ、なのはとの初めての共同作業で「うん、うんうん」と感涙する場面が活きる。また、戦いの悲しい終結があったからこそ、最後のフェイトとなのはのやり取りが感動的になる。
 フェイトみたいなキャラは、他の「魔女っ子もの」にいそうでいないと思う。なのはは普通すぎて、むしろ主人公とは思えないくらいに強度が弱い。なのはを支えているのは、少年漫画的な熱血魂だけ。フェイトという強度の強すぎるキャラがいなかったら、「リリカルなのは」は面白くなかったんじゃないか。観る前は「萌える」映画だと思っていたから、まさか「燃える」映画だったとは、予想外。

 物語は典型的すぎだけど、キャラの強度でそれを乗り越えている。冷静に考えれば、あんな辛い物語にする必要はないし、そもそもフェイトの母親が馬鹿すぎだし、何だかよくわからない話だけど、「細けぇこたぁどーでもいーんだよ!」とばかりに熱血友情物語に絞ったため、冷静に考える暇を与えない。面白かった。
 問題があるとすれば、観に来ている客の全員が青年以上の男子で、女性はおろか子供が1人もいなかったことか。しかも最後にゃ場内のあちこちからすすり泣きの音が聞こえたからなぁ。それが悪いとかキモいとかはいわないよ。だって、私も泣けたし。
 最後の、フェイト「なのは」⇔なのは「うん」という応酬が素晴らしすぎ。そこへ到達させるためだけの2時間だったといっても過言でない。アニメ映画の新しい名場面として残ると思うくらい。もうね、その場面を見た感想は、何というか、愛娘を見守る父親の気分。「良かったな、なのは!」みたいな。
 最初は「Fete」、「消失」、「なのは」の中で「なのは」が最も面白くないと思っていたんだけど、単なる「萌え」のオタクアニメだろ、と思っていたんだけど、まさかこんなことになるとは……本当にキャラの強度の力技でねじ伏せられたって感じだ。「萌え」から「燃え」(少年漫画)になり、最後には父親の気分になれる「魔女っ子もの」。たった2時間弱で、娘の成長を楽しめるような。これは、オタクだったお父さん向けアニメなのかもしれない。でも、これが「リリカルなのは」の魅力なんだろうか? 映画版だけなのかもしれない。だから、TVアニメ版を観たことがなくても、映画版だけで十分に楽しめることは間違いない。
 ところで、主人公が美少年同士の物語であれば、青年男子よりも青年女子がたくさん劇場に詰め寄っているのかなぁ?

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2009-12-25

『2012』は、前田建設ファンタジー営業部に頼むべきだ

 ローランド・エメリッヒ監督の『2012』を観た。予告編で観た通りの、期待を殆ど裏切ることのない、大災害映画。
 期待通りというのには、エメリッヒ監督作品であるわけだから、絶対に中身ないんだろうなぁ、という期待もこもっており、当然のように裏切られない。期待通りというか、想像通りというか、むしろその上をいく凄まじい大災害っぷりに、中身のなさなんて気にならなくなる。科学的に間違ってようが、主人公家族にとってとんでもなくご都合主義的な物語であろうが、そんなのどうでもいいわ。うわー、すげー、と頭空っぽにして、家族みんなでキャッキャキャッキャと楽しめるファミリー向け大災害映画。考えたら、あそこまで凄まじい大災害を描いておきながら、家族みんなで楽しめるってんだから凄い。間違いなく、エメリッヒ監督の最高傑作だろう。

 物語は……あってないようなものだ。何か大昔に地上崩壊の予言か何かがあって、本当にそれが起こって大変なことになる。
 そんだけ。理屈も何もない。つーか、古代文明なんてキーワードはどうでもいいのだ。何か物語を作る理由としてきっかけが必要だっただけ。エメリッヒ監督は古代文明好きなのか? とにかく、「古代文明が予言してたんだからそれでいーじゃないか!」と逆ギレしているかのように、景気良く「どっかーん! ぐっしゃーん!」と地上が木っ端微塵になる光景を楽しむだけの映画だ。それ以外の要素は全くない(あったっけ?)。

 『2012』を観て真っ先に想い出すのは、今年の夏頃に公開された、我らが『ダークシティ』を撮ったアレックス・プロヤス監督のニコラス・ケイジさん主演『ノウイング』だ。
 同じような大災害映画なんだけど、『ノウイング』は「地上崩壊」でなく、「地上破壊」の映画。あえていえば、『2012』に『インデペンデンス・デイ』を足したような感じ。私的には、『2012』よりも『ノウイング』の方が好きなんだけど(残酷だからなのと、結末がアホだから)、金のかかりかたが桁違いだからか、映像の凄さは『2012』の圧勝
 『ノウイング』よりさらに遡って、キアヌ・リーヴスさん主演の『地球が静止する日』は地球が静止しない映画だったので、草なぎ剛さん主演の日本が沈没しない『日本沈没』並みに金返せ映画だったので、結末のアホさはさて置いても、ちゃんと地上破壊される点から、『ノウイング』はとっても評価できる。
 超能力に宇宙人、予言やら何やらと怪しい要素だらけなこともあり、M・ナイト・シャマラン監督作品に近い感じがある。とりあえず「大変なことが起こってます!」感を描いた『ハプニング』に似ている気もする。意外と、エメリッヒ監督とプロヤス監督とシャマラン監督は仲良くなれるかもしれない(大味だし)。
 で、色々とくっ付けて連想すると、本当に大変なことが起きてハッピーエンドになる『2012』は、作品全体が大変そうな『ハプニング』の真逆にも思える。

 色々と不満はある。
 後半に入ってから一気に面白くなくなる点が何よりも拙い。前半までに崩壊ネタを大奮発したためだろう。前半は本当に面白い。画面に合わせて客席が揺れれば、そのままどっかのテーマパークの乗物になるくらいだ。つーか、殆どTVゲーム感覚。Wiiでゲーム出ててもおかしくないし。「うわーっ、あっちに避けろー!」とかいってコントローラーを振り回す感じ。ところが、後半から人間ドラマが始まっちゃって、一気に眠くなる。家族向け映画だからしかたないんだけど、『ノウイング』を超える、地球消滅規模の大崩壊を観たかったなぁ。
 科学的に間違っている――などというのは野暮ってものか。古代文明の予言という時点でおかしいものな。
 主人公家族に都合が良すぎる、というのも野暮。なーんであんなに窮地を脱出できるのか、なーんで主人公家族には色んな破片が当たらないのか――それをいうと、日本のアニメなんてそんなんばっかだしねぇ。ナウシカだってルパンだって、なぜか敵の一斉掃射に当たらないもん。家族向けだからそれでいいのだ。
 不満はあっても、「まあいいか、エメリッヒ監督作品だもんな」と許せてしまうくら輝かしいアホ全開っぷりが『2012』にはある。んだけど、ここだけは許せないって点がある。巨大な避難船の建造についてだ。

 全人類を助けることはできないから、せめてその何%だけでも助けるべく、超極秘に巨大避難船を国家間の垣根を越えて建造するんだけど(その超極秘事項が、アメリカの山奥に住むヒッピーに簡単に見つかってるのはどうなんだとは思うけど)、建造を担当しているのは中国なんだよね。いや、あんなにデカイものを建造するんだから、その場所は中国とかになるだろうけどさぁ、どう考えたって、巨大な何かを建造するのは日本が宇宙一得意に決まってんじゃん! あそこに不満を抱かない日本人は多いと思います!
 考えれば、スティーヴン・スピルバーグ監督の『宇宙戦争』で、世界で最初に宇宙人を倒したのは日本だった。スピルバーグ監督はわかってらっしゃる。ゴジラだって、ウルトラマンだって、宇宙戦艦ヤマトだって、ガンダムだってマクロスだってエヴァだって、みーんな日本産。プールが真っ二つになってロボットが出てきたり、蒸気機関車が天に向かってそびえ立つ線路から宇宙に発車したりするのが日本人の常識となっている以上、山ん中にでっかい避難船を作るなんざ簡単に決まっている。それがメイド・いん・ジャパン(By.おりもとみまな)。
 だのに、何ですか中国って!? そりゃ今じゃ経済大国は中国ですよ。世界での日本は小さく小さくなっておりますよ。それでも日本以上に空想世界に夢中になってる国はない! 前田建設ファンタジー営業部に連絡したら、絶対に中国なんかより優れたものを安く作ってくれますよ! 嗚呼っ、『2012』を作る前のエメリッヒ監督に前田建設ファンタジー営業部の存在を教えて上げる人がいれば良かったのにっ!! 『2012』のエンド・クレジットに「MAEDA Corporation Fantasy Marketing Department」という社名が表示されていたらとっても愉快なのにっ!
 おかしいよ、アメリカだって中国製品は怪しんでたりするのにさぁ。ちぇっ。

 とまあ、物語の薄っぺらさと巨大避難船の点と後半からダルくなる点を除けば、TVゲームをやってるみたいで、とっても楽しい映画だ。映像の凄さは、現時点で最高といえる。あまりに最高すぎて、大災害っぷりに爆笑してしまうくらい。たっくさん人は死んでいるけど画面には一切映らないし、そこに少しだけ不満はあれど、そーゆーものを映したい映画じゃないのでしかたない。
 少なくとも、さらなるVFXの進化した地球崩壊映画が登場するまでは(たぶん来年までだろう)、『2012』が最高の大災害映画として君臨するだろう。

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2009-08-08

『サマーウォーズ』はちょっと黒澤明監督作品っぽい

 細田守監督の新作『サマーウォーズ』を観た。予告編から、絶対に面白くないに決まっている、と思っていたんだけど、予想以上に面白かった。予想以上どころか、遥かに面白く、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』と比較するなら、比べ物にならないくらい面白かった(以下、ネタバレあり)。

 物語は単純なようで、複雑でないけど、簡単でもない。主軸は高校生男女の典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール」の話が、「燃える闘魂のおばあちゃん」の話と「ネット世界を巡る戦い」の話に両脇を挟まれ、気付くと主人公が世界の運命を握っている「世界系」へと雪崩れ込み、ハッピーエンドとなる。
 物語の構成がとても巧い。省略が的確だ。ネット世界「OZ」の説明、おばあちゃん・栄の人物説明、脇役の描写と設置のしかた、みんな的確だし、省略が効いていて物語が淀みなく進行する。脚本の出来が良いのだろう。
 たとえば主人公・健二とヒロイン・夏希の関係。後輩と先輩の関係であることは、健二が夏希を「先輩」と呼ぶから瞭然としているけど、それ以外の情報は一切ない。両者の説明は、台詞で行われず、あくまでも状況描写だけで行われる。
 脇役についても同様だ。大人数の親戚が登場するのに、混乱が一切ない。家系図が土台にちゃんとあって、日本的な家族の関係性が淀みなく描かれる。
 物語の全体として重要になる夏希の魅力も的確に描かれている。『サマーウォーズ』の成功は、夏希と栄の魅力にかかっており、特にヒロインである夏希の魅力は重要だ。夏希は、物語中盤まで、大して魅力的でない。健二を初恋のおじさん代わりに田舎へ連れて行き、いざ初恋のおじさんが現れたら健二を放置する。しかし、栄の死去以降、魅力的になる。というか、どの登場人物も栄の死去以降に俄然と輝きだす。つまり、そこまでは「燃える闘魂のおばあちゃん」が中心となって物語を牽引する。栄の死去により、夏希は栄からバトンを渡される。展開の比重の置き方が巧いなぁ、と思う。
 これだけ無駄のないちゃんとした展開を見せる映画は、最近のメジャーな邦画の中では殆どなく、実写を含めてもトップクラスの出来だろう。

 難点はもちろんある。ネット世界「OZ」の描き方の酷さは誰もが指摘する点だろう。
 セカンドライフを物凄くしたような「OZ」は、発想的にちょっと年寄り臭い。だって、あまりにも旧態然としているんだもの。あんなの逆に使い辛いでしょ。役所の情報管理だけならまだしも、交通機関の制御までネットに頼りきりなんて、安全性の問題から絶対に実現しない。ハッキングAI「ラブマシーン」の描写もメチャクチャだ。あれを実現できるコンピュータとプログラムが現れるのは遥か遥か先。
 「ラブマシーン」の描写だけでなく、「キング・カズマ」の描写もメチャクチャだし、後半の花札勝負の場面も描写がメチャクチャだ(まさかあそこで「魔法少女もの」の変身場面が見られるとは思いもしなかった)。ネットでの格闘や花札をめくるのに「うぉおおーっ!」と叫ぶ必要ってないでしょ。実際はキーボードや携帯のボタンを押しているだけなんだから(そうそう、格闘場面の描写で疑問に思ったのは、キーボードを使っている点だ。レスポンス悪いだろうに)。
 しかし、それらを実際のネットに即したものにしたら、アニメ映画として面白いものになる筈がない。『サマーウォーズ』はネットに慣れきった人々(若者)だけに向けた映画でない。誰が観ても理解できるように、批判したくなるくらいに旧態然とした発想の描写にしてあるのだ。つまり、ネット世界に肉体性を持たせるという方向性の演出に。理屈で考えれば腑に落ちない点だらけだけど、何となく雰囲気で理解できる――させるのが『サマーウォーズ』だ。いってしまえば、『鉄人28号』くらい昔の発想(描写)による物語だ。

 『サマーウォーズ』は、『耳をすませば』と『おもひでぽろぽろ』に似ている。田舎を舞台にしている点が『おもひでぽろぽろ』っぽく、高校生男女のロマンスが『耳をすませば』っぽいと。
 『おもひでぽろぽろ』を特に彷彿とさせるのが最後の場面。そこまでが比較的現実的に作られているのに、最後の最後でいきなりファンタジーな演出になる。私はそこに納得できないけど、ハッピーエンドの締め括りとしては観客の期待に応える感動的な演出だ
 『耳をすませば』を彷彿とさせるのは、子供の恋が堂々と高らかに描かれる点。『耳をすませば』の脚本は宮崎駿さんだ。絵コンテも担当していたから、作品を殆ど牛耳っているようなもので、子供が愛を恥ずかし気もなく高らかに謳い上げる映画になっている。他の人が作ってはあんな小っ恥ずかしい作品にならない。
 『サマーウォーズ』にはそんなジブリっぽさがある。つまり、『時をかける少女』に比べてもっと万人向けに作られている。栄のようなおばあちゃんが観たってわかるように。

 と、基本的にとても素晴らしい作品なんだけど、歴史的傑作と呼ぶための決定的なものが足りない。登場人物が多すぎるがゆえに中心人物が欠いていて物語が薄いのが原因。
 登場人物の中で重要人物の1人である侘助を、主人公・健二の立場を立てるために、悪役っぽく描いているのが駄目。侘助は夏希の初恋相手なんだから、侘助を完璧な初恋相手として描いてこそ、健二と夏希が相思相愛になるハッピーエンドが最高に盛り上がるのだ。時間配分からそんなことは無理なのはわかってるんだけど、そこが惜しいな、と思う。
 また、盛り上がる場面の大半がネット世界「OZ」での展開なのも悪い。ヒロインの夏希が最も活躍するのは、「OZ」での夏希の分身であるアバターだし、「キング・カズマ」の場面もそうだ。そのせいで、何が起きていても緊迫感がない。
 主人公である健二の活躍場面が最後にしかないのも物足りない。これまた人物の多さと時間配分の問題なんだろうし、細田監督があれもこれもと詰め込みたかったからしかたないことなんだろうけど。
 結果的に、観ている間は面白いし、感動もするけど、観終えた後に大切な思い出を持ち帰ることはない。ロマンスも、冒険も、感動も、みーんな細切れで、味わい足りない。展開を――特に「キング・カズマ」関連は丸ごと削っても問題ない――省いたり強調したりすれば、もっともっと面白くなったのに。私は、夏希が健二を守る場面や、その逆や、健二が鼻血よりも言葉と大きな声で小っ恥ずかしい愛を高らかに謳い上げる場面や、栄おばあちゃんの活躍や、世界の本格的な危機を見たかった。しかし、何もかもが仮想的で、緊迫感が欠けていた。

 『サマーウォーズ』は、先鋭性を捨て、典型的な描写と演出を選択することで万人向けの魅力を出すことに成功している。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』よりも、「日本のアニメの閉塞的状況」を打破することができそうなアニメ映画だ。それどころか、実写でも『サマーウォーズ』ほどにちゃんとしている邦画は数少ない。無駄に長くて、説明だらけで、これみよがしなハッピーエンドすら作れない実写邦画の多さを考えれば、『サマーウォーズ』は本当に良く出来ている。栄が死んだ時の、長い横移動のワンショットで描く家族の描写の素晴らしさを見ても、単なるアニメでなく、「映画」を意識して作られていることがわかる(『サマーウォーズ』には横からのショットがとても多い。これは細田監督の特性なんだろうか?)。
 ネットの描写なんか十年以上経つと色褪せるし、欲張りすぎてギューギュー詰めになっているし、そのくせ足りないものもたくさんあるけど、年間のベストには間違いなく入る傑作だろう。それに、『サマーウォーズ』を観ると、もしかして「大家族」を真正面から描くのは最早アニメしかないのかもしれない、と思えてくる。
 あとは……堂々と小っ恥ずかしい話を照れずにやり抜くことか。宮崎監督に負けないくらいの。最後の場面は、ひと夏の戦争を終えたご褒美ともいえるサービスショットで、宮崎監督でもやらない反則技。あの恥ずかしい演出をもっと全開にできていたら、もっと良かったのに。黒澤明監督の『』をちょっとだけ想い出した。

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2009-06-18

『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』は犬で浮浪者を撲殺する映画

 木村拓哉さんジョシュ・ハートネットさんイ・ビョンホンさん主演の『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』を観た。絶対に『レイン・フォール』や『バンコック・デンジャラス』に匹敵する駄作と予想していたら、その予想を大きく上回る変な映画だった。あそこまで変な映画は久しぶりに観たぞ。

 物語は単純。人生落伍者の探偵が、事件を追ううちに自らの傷を癒すという、よくある探偵ものだ。
 ハートネットさん演じる探偵のクラインが、とある大富豪から、行方不明になっている息子のシタオの捜索依頼を受けるのが物語の始まり。シタオを演じるのが木村さんだ。クラインは、シタオがいると報告された香港へ行く。そこには、ビョンホンさん演じるマフィアのボスのドンポがいた。奇しくも、ドンポも別の理由からシタオを探すことになる。探偵とマフィア、そして謎の行方不明青年、全く関連する筈のない3人の運命が交差する時、人間の想像を超えた奇跡が現れる。
 と、一応はちゃんと物語があるんだけど、実際は、物語はないも同然。物語の進行を追いかけるのが馬鹿らしくなるくらい、メッチャクチャなんだもの。
 それに、本当なら物凄くありふれた単純な物語だったのに、癒し映画になりえたのに、何を間違えたか連続猟奇殺人鬼をそこに混ぜちゃったもんだから、異常な映画になってしまっている。

 『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』の観客の多くは女性だから(実際、私が観た時は、平日のモーニング・ショーだったのに、座席の半分近くを埋める観客数で、私を除いてみんな女性だった)、もっぱらアメリカとアジアのイケメン見たさの人ばかりだろうに、「あ~、ビョンホン、カッコイイわねぇ~」とウットリしたかったろうに、その期待は裏切られるどころか、想像もしえないとんでもないもの見せられて唖然とする羽目に。
 登場する連続猟奇殺人鬼というのが、よりにもよって殺した遺体をバラして――食べたりして――“芸術品”を作る、極悪非道な上にアーティスト気取りのキチガイだ。こいつはイケメンじゃない。
 連続猟奇殺人鬼の造る芸術品、ぱっと見てすぐにわかるけど、フランシス・ベーコンさんの絵画そのもの。気になったのでパンフレットを購入してみたけど、映画評論家による解説にも監督のインタビューにもベーコンさんの名前が出てこない。監督が意図的に作ったのは間違いないのに、解説を執筆した映画評論家は知らないのかもしれない。
 ベーコンさんの絵画を知らない人のために、参考をば。
bacon
 正にこれ。これが登場するのだ。「ベーコンさんのパクりだ!」と批判したいわけじゃない。ベーコンさんに影響された映画なんてたくさんあるし。代表的なのは、デヴィット・リンチ監督の作品。たとえば『ワイルド・アット・ハート』に登場するウィレム・デフォーさんの「歯ぐき」。他にも、エイドリアン・ライン監督の『ジェイコブス・ラダー』の悪夢の演出とか。ただしそれらは、影響下にあるだけで、ベーコンさんの絵画そのままってわけじゃなかった。しかし、『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』に登場する“芸術品”は、ベーコンさんの絵画そのままを立体造形したものだった。
 何であんな“芸術品”を登場させたのか、正直よくわからん。まあ、『羊たちの沈黙』みたいにエド・ゲインさんがモチーフになっているのは間違いないと思うけど、それをそのまま使うには使い古されているから駄目だと思い、ちょっと別の路線で頑張ろうと思った結果が、ベーコンさんだったんだろう。狙いはいいんだけど、何もイケメン好みの映画でそれをやる必要はなかったんじゃないの?
 また、せっかくの“芸術品”の出来がキレイすぎてイマイチだったし、映し方にフェチっぽさがなくて色気がなかった。ベーコンさんは知っての通りゲイだったので、フェチ要素は重要だ。『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』の主役3人はやたらと半裸になるから、もしかしてゲイ要素が多いのかと思いきや、そうでもない。フェチっぽい場面はたくさんあるけれど、なーんか“薄い”。せっかくのショッキングで度肝を抜くような“芸術品”が、素っ気なく撮られている。もったいないなぁ。

 イケメンが見たかっただけの、どんな映画か全く知らずに観た女性客は、怒るかもしれないし、今観た映画は何だったのか悩むかもしれないし、ただただ唖然とするだけかもしれない。少なくとも、「あー、面白かった!」なんて言葉は絶対に出ないだろう。ましてや癒されることなんてありえない。だってさぁ、犬を射殺して、その犬をぶん回しながら浮浪者を滅多打ちにするような場面のある映画なんだよ?
 しかも、時系列を説明らしい説明なしにごっちゃにしてる上に、今じゃ殆ど見られないオーバーラップ編集を多用してるから、何が何だかわからない。深読みできるような映画に見えるけど、解釈するだけ無駄。物語をキレイに整理整頓してみても、何かが抜けていて、何かが余分なんだもの。普通に作れば普通の映画でしかないものを、わざわざわかり難く編集しているだけ。そこを一生懸命に解釈しようとすることは無駄でしかない。
 そんな点からも、とってもデヴィット・リンチ監督っぽいと思えた。特に、オーバーラップの使い方が。明らかにリンチ監督を意識しているとしか思えない。音楽の使い方まで似ている。レディオヘッドの曲が何曲か使われているけど、わざと怪しい使い方している。レディオヘッドは『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』を観たのだろうか? 観たとしたらどう感じたろうか。

 例えば黒沢清監督や、ツァイ・ミンリャン監督と仲良くなれるような映画かもしれないけど、そうでもない。自意識だけが前面に出すぎている。
 しかし、映画の出来が悪いというわけでもない。困ったことに、素晴らしいショットが多いのだ。もったいなさ過ぎるショットもかなりあるんだけど。映画の出来が悪いとしたら、脚本の出来が悪すぎるからだ。もったいぶった意味のないシークエンスが多く、カットできる部分が20分はあった。そこを削って短くし、もっとフェチっぽさ全開にしてくれれば、わけがわからなくても「傑作だ!」という人はたくさん現れただろう。今のままじゃ……わけわからん、ていわれてお終いかも。
 それに、主役を演じる3人がイケメン好きの期待を裏切ってない。やたらと半裸になるし、雨やら汗やらでしょっちゅう濡れ濡れになり、水も滴るいい男を文字通り演じている。木村さんも、殆ど喋らない役だからか(悶絶したり絶叫する場面が多い)、何を演じても「キムタク」になることもなく、正に「今まで誰も見たことのないキムタク」になっていた。ダリオ・アルジェント監督の『フェノミナ』のジェニファー・コネリーさんみたく、蛆虫まみれになる場面だってある。力演だ。ファンにはたまらんでしょ。だから、主役3人を見るためだけに観に行く価値はあるといえば、ある。意味不明で怪しく長ったらしいPVを見せられていると思えば気にならんだろ。
 ま、要約すれば、「イケメン鑑賞のつもりが猟奇殺人を見せられて、平気で犬を虐待する人が登場する、『ツイン・ピークス』のような物語」か。

 私は……何だかんだと批判しているようだけど、こーゆーのは大好きだ。映画史には残らんだろうけど。色気のない“薄い”映画だから。ホント、もったいない。

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2009-04-21

『ウォッチメン』は例えば江戸川コナンの存在意義問題のような

 ザック・スナイダー監督の『ウォッチメン』を観た。凄かった。が、「凄い映画」だったかというと、そうでもない。

 原作を読んだのは十年前くらいに出た邦訳だ。凄い漫画があったもんだ、と思った。が、内容はそんなに面白いと思えず、買って1ヶ月くらいで古本屋に売却した。買取金額は200円くらいだった。今から考えると、物凄くもったいないと大後悔。Amazonなんかじゃ今、2万円以上で売ってるんだから(こないだ再出版されたやつまで、高値になってて呆れる)。なので、内容の詳細を覚えていないため、新鮮な気持ちで観ることができ、楽しめた。
 物語は、世間では色々と難しそうなことをいってるけど、すっごく単純。「戦争が始まりそうな時に、簡単に国を滅ぼすことが可能な超人がいたら世界はどうなるか、またヒーローは役に立つのか?」というだけのもの。時系列をごっちゃにし、過剰すぎる演出で彩り、冗談なのか本気なのかわからない設定のためにわかり辛いけど、実は単純明快な物語。

 漫画やアニメの物語世界では、基本的にヒーローの存在は認められている。が、捻くれ者はヒーローの存在意義に疑問を抱いたりする。その疑問の発展形が『ダークナイト』や『ウォッチメン』などだ。
 ヒーローの存在意義に問題があるとすれば、それは「ヒーローがいるから犯罪が減らない」という「ヒーローもの」の基本構造にあるだろう。たとえば『名探偵コナン』では、どうして難解な連続殺人事件が必ず多発するのか? 江戸川コナンが殺人事件を呼び寄せているのじゃないか? 江戸川コナンが存在しなければ、多くの殺人事件は発生しなかったかもしれない。江戸川コナンは、得意気に事件を解決する前に、己の存在の不穏さに戦慄すべきではないか? 存在意義に悩むべきでは? もしも、江戸川コナンがキレて殺人鬼になったとしたら、捕まえられる者はいるのだろうか?
 ヒーローが自らの存在意義に疑問を抱いてしまうような世界では、そもそも根本的にヒーローは望まれていない。ヒーローの存在は「苦しい時の神頼み」扱いにすぎない。正義の味方は、争いの象徴でもあるわけだし。でも、ヒーローはそれを理解した上で存在している筈なので、普通は「自らの存在意義」なんてものに悩まない。従って、「望まれていない」の最終形態として、『ウォッチメン』は「キーン条例(ヒーロー廃止法)」という設定を設けた。それにより、ヒーローは明確に「望まれていない」を自覚することになる。
 ヒーローの悩みは、普通に考えれば、コストとリスクの問題でしかない。ので、『ウォッチメン』のような作品が考えるべき「現実的な問題」は、本来なら守られる側である一般人とのトレードオフの問題であるべきで、ヒーローの存在意義なんてどうでもよいことだ。
 優れている人は他人のために働くべき――これは普通のことだ。学校の先生、医者、政治家、公務員、官僚……優れた人は、周りの役に立つことをするのが社会全体の効率を考えれば当然のこと。たとえそれがヒーローという特殊な存在であっても。ヒーローが自らの存在意義に疑問を抱くということは、単に社会の成熟度が足りないだけのことでしかない。「監視者を監視するのは誰だ?」というテーマを持つ『ウォッチメン』は、現実社会の隠喩として見ることができる。

 とまあ、実際にそんな政治的社会的な内容なんだけど、映画の出来はクエンティン・タランティーノ監督作品っぽい。『パルプ・フィクション』みたい。狙っている安っぽさが同じなんだよね。
 漫画映画としては、ほぼ完璧。映像の強烈さゆえ、原作よりも一見のインパクトは大きい。内容はシニカルだけど、ヒーローたちの活躍場面の演出は凄くカッコイイ! 特に紅一点であるシルク・スペクター2世のアクション場面! 『デス・プルーフ』をものにしたタランティーノ監督なら駄目出しするだろうけど、ストレートの長髪がヴィダルサスーンのCMかと思わんばかりにキレイに弧を描いて動く様はバカ度溢れる素晴らしい演出だ。ま、アクションの演出そのものはパク・チャヌク監督の『オールド・ボーイ』の横移動のやつと同じだったけど。
 見応えはとってもある。内容もギュウギュウに詰め込まれている。アクションはふんだんにあるし、妙に残酷描写も無駄に頑張っている。面白いショットだらけなので、飽きない。オープニング・クレジットが最も良かった。『セブン』以来の衝撃――とまではいかないけど、CGをふんだんに使い、古めかしいアメコミを意識したカッコイイものだった。が、全体的には、原作通りという制約があるからか、躍動感のない仕上がりに。超大作な割りに、映画館で観るよりも、家で観た方がいいかもしれない。DVD(かBlue-Ray)で繰り返しながらじっくりと観た方がいい。
 また、既にピクサーが『ウォッチメン』を換骨奪胎した『Mr.インクレディブル』を作っているので、娯楽作品として楽しむならそっちの方が遥かに面白い。

 内容から『ウォッチメン』はカルト作品として残るかもしれないけど、それは原作ありきの評価にすぎないので、映画単体として見れば、凄いようで凄くない凡作止まりだろう。何より、製作費を俳優陣に割り振れなかったからか、『ダークナイト』でのジョーカーのような存在がいないのがいかん。全体のショットでは『ダークナイト』よりも遥かに『ウォッチメン』の方が優れているけど、歴史に残るのは『ダークナイト』の方だ。
 物凄く頑張っている映画、という印象以上の映画ではない。

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ジャンル : 映画

tag : ウォッチメン

2009-04-13

『イエスマン』はとっても最高の凡作

 ジム・キャリーさん主演の『イエスマン “YES”は人生のパスワード』を観た。ジョン・ヒューズ監督作品のような、素晴らしく平凡な出来の映画だった。
 「素晴らしく平凡」は褒め言葉であって、貶しているわけじゃない。別のいい方をするなら、「最高の佳作」といえる。つまり、最初から映画史に残る傑作を撮ろうとしていない。鑑賞料金分を誰もが楽しめるように、確実性の高いものを目指して作られている。大爆笑することはないし、ロマンスでウットリすることはないし、感動的に泣くこともできないけど、まんべんなくその要素が混ざり、「まあまあ」の仕上がりになっている。「素晴らしく平凡」な「最高の佳作」だ。

 何に対しても否定的で後ろ向き人生の主人公が、何でもかんでも「イエス」と応えることを誓わせる変なセミナーの教えにハマり、人生を好転させる物語。後半には「イエス」で応え続けたために問題が発生するけど、最後は当然、スッキリさっぱりのハッピーエンド。
 キャリーさんはこーゆー物語の主人公が似合う。が、正直いって、アダム・サンドラーさんの方が絶対に似合うと思った。歌う場面が2箇所あるんだけど、ちょっとキャリーさんじゃ華がないんだよね。変顔対決の場面なんかは確実にキャリーさんの独壇場といえる名場面だけど。
 ヒロイン役のゾーイ・デシャネルさんは良かった。劇中に登場する「ミュンヒハウゼン症候群」という名前のバンドのリード・ヴォーカルとして歌声も披露している。その「ミュンヒハウゼン症候群」の曲が、よれっよれのオルタナなエレポップ――ドイツに山ほどいそうな下手くそ加減で、アメリカ人向けとは決して思えないような――で、個人的にかなりド真ん中。ちなみに「ミュンヒハウゼン症候群」て何のことか調べてみたら、「他人の関心を引くためになら何でもしてしまうような人」のことを指すらしい。なるほど、それがバンド名になっているのはピッタリだ。

 バンドが出てきて、そのバンド名が結構ちゃんと物語を示唆しているように、『イエスマン』は音楽が重要な役割を担っている。そこがヒューズ監督っぽい所以。
 まずは何よりもイールズでしょ。映画の音楽は、イールズのリーダーであることマーク・オリバー・エバレットさんが全面協力していて、エンド・クレジットを見ていると、イールズの曲だらけ。既存の曲をそのまま使っているものもあれば、映画用にインストにアレンジし直しているものもあり、イールズの映画といっても過言でない(エイミー・マンさんのPVと化していた『マグノリア』に近いものがある)。
 飛び降り自殺をしようとする男をキャリーさんが歌って止めさせる場面があって、そこで歌われるのは、サード・アイ・ブラインドの「Jumper」。誰も知らないよ、サード・アイ・ブラインドなんて。場面にピッタリすぎて、キャリーさんが映画用に書き下ろしたオリジナル曲かと思ってしまう。本当は感動的な歌詞なのに、爆笑間違いなし。が、私はここで「あー、この場面はキャリーさんよりもサンドラーさんの方が似合うなぁ」と思ってしまったのだけど。ちなみに飛び降りようとしているのは、『ブギー・ナイツ』に出てたルイス・ガスマンさん。そこだけのチョイ役だけど、強烈な印象を残すので、お得な役だ。
 そもそもジャーニーの曲で始まって終わるし、大袈裟ロックといえば主演は、キャリーさんでなく、ジャック・ブラックさんでも似合いそう。変顔もできるし、演技の幅も広いし(実際、最初はブラックさんが主演に考えられていた)。ちなみに使われているジャーニーの曲は、「Separate Ways」。題名通り、別れてしまう危機を歌った歌。男が主人公で、彼女と別れそうになっていて、2人はとても愛し合っていたのに道を違えてしまっただけなので、愛し合った日々を想い出して戻ってきてくれよぉー! と熱唱している歌。『イエスマン』の物語にピッタリなのだ。
 劇中で使われる曲に覚えがある人なら、物凄くウケることは間違いないんだけど、もったいないことに殆どの曲の歌詞が字幕にならないので、知らない人には単なるBGM扱いにしかならないだろう。演出として音楽が重要な位置付けになっているこの手の映画で、歌詞を字幕にしないのは、演出の意図を無視した行為で、最悪だと思う。本当に、もったいない。
 
 ウェルメイドなコメディ映画だと思われそうだけど、チョイ下品なギャグもあるので安心(?)できる。お婆ちゃんが、入れ歯を外してフェラチオしてくれるシークエンスなんか、キャリーさんの「何この快感!?」て表情と相まって、とても可笑しいし、その後の場面でそのお婆ちゃんが評判になってたりするのがまた可笑しい。
 終わり方も見事。テレンス・スタンプさんが好演している。
 キャリーさんは、「NOマン」だった頃の生気のない演技と「イエスマン」になってからの元気溢れすぎる演技とで、ちょっと大袈裟すぎる区分けをしていて、ぱっと見では構成が『マスク』と変わらないかもしれない。というか、「マスク」も被らないのに人間性がメチャクチャ変わったら、周囲の人々は嫌がるでしょーな。それでも、確かに、「イエス」で応え続けて人生が楽しそうなるのを見てると、観ている私まで「もう少し人生に冒険を与えて楽しんでみよう」という気にさせられる。いや、キャリーさんみたい変わったら人生終わりそうではあるけど。
 細かいことを無視しないと気になることがたくさんありすぎる無理のある物語ではあるけど、そこを気にさせない演出と、キャリーさんの元気演技で絶妙のバランスを維持し、音楽も良く、コメディもロマンスも人生訓(?)も楽しめて、元気まで貰える――本当に良い佳作だと思うんだけど、素晴らしく平凡なため、日本では絶対にヒットしない(アメリカではキャリーさん主演映画の久々のヒットだった)。もったいないなぁ。映画の鑑賞料金がもっと安くならないと、『イエスマン』のような見事な佳作のコメディは絶対にヒットしないだろうな。

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tag : イエスマン

2009-03-20

『ヤッターマン』は昭和の東映漫画映画の匂いがする

 三池崇史監督の実写版『ヤッターマン』を観た。
 予告篇などから、さぞかしとんでもなく出来の悪い映画なんだろう、と想像していたら、“大好きな”映画だった。小学生男子マインドに溢れた、一言でいうと、子供に観せたくない子供映画

 物語は、基本的にアニメを踏襲している。ただし、演出は実写にするにあたってアニメ以上に大袈裟になっている。ヤッターマンとドロンボーの戦いは、都市を壊滅する勢いだし、そもそも決めポーズ1つとっても、アニメの動きを忠実に実写へトレースするだけで大袈裟になってしまう。元々がハイテンションなアニメだから、それを生真面目に実写にするだけで、嫌でも大袈裟になる。三池監督は、躊躇なくそれをやり遂げ、異常な映画に仕上げた。
 まず、誰もが絶賛するだろう、ボヤッキーの見事さ。あれは凄い。『ダークナイト』のジョーカーを演じたヒース・レジャーさん並に、ボヤッキー役の生瀬勝久さんは素晴らしいと思う。「ポチっとな」もハマっていた。ドクロなキノコ雲も、電撃を浴びたら骨が透けて見えるのも、他の登場人物たちの仕草も見事なくらいにアニメのまんま。
 紛れもなく『ヤッターマン』であり、しかしこれまた紛れもなく三池監督映画でもあった。

 『ヤッターマン』を観て、真っ先に想起したのは、アンディ&ラリー・ウォシャウスキー監督の『スピード・レーサー』。そして、スティーヴン・スピルバーグ監督の『フック』。
 『スピード・レーサー』が想起されるのは、同じ「竜の子プロ」のアニメが元となっているからってのがあるけど、異常性が似ているから。『スピード・レーサー』は、子供向け映画なのに、明確にドラッギーだった。
 『フック』は、別にドラッギーではないけど(いや、マリファナ向きか)、観客を置いてけぼりにするハイテンションさがスクリーンの中で繰り広げられる、スピルバーグの幼稚性が悪い形で全開になっていた。スピルバーグの幼稚な異常映画は、『1941』も同格だけど、最たるものは『A.I.』だろう。
 これらに共通するのは、居心地の悪さだ。

 『ヤッターマン』は、子供向けなのか大人向けなのか判断に困る点が多い。映画版の『クレヨンしんちゃん』シリーズが子供向けアニメの形をした大人向けアニメなのとは異なる方向性で、下ネタ&下らないギャグが多い。
 世界中から色んなものが消滅して行き、「そして遂に最も消えてはいけないものが消えてしまった!」ともったいつけて何が消えたのかと思えば、「パチンコ」の「パ」だという下らない小学生男子レベルの下ネタギャグ
 ヤッターワンとオッパイを強調したドロンボーのロボットの戦いは、ヤッターワンは「たまらんワン」と興奮して腰を振り(がっすんがっすんと突進する)、ドロンボーのロボットは「あっはーん。あっはーん」と喘ぎ、紛れもなく交尾として描いている
 終盤の、ドクロベエの頭の蓋が開き、阿部サダヲさん演じる海江田博士の顔が除くホラー真っ青な演出
 深田恭子さん演じるドロンジョ以外の、福田沙紀さんヤッターマン2号と岡本杏理さん演じる海江田翔子の粗雑な扱い。特に翔子は、「なぜに?」と疑問を抱くくらい、痛々しい扱い。アイドルである櫻井翔さんですら、馬鹿としか描かれていない
 最後の、ヤッターマン2号に対して翔子がいう台詞、「ありがとう2号さん」に対するヤッターマン2号の台詞、「“さん”は付けなくていいから。“2号”でいいから」のオヤジギャグ。
 全編、寒々しい。酔ってるか、ラリってれば大爆笑間違いなしな演出の連発ではあるけど。しらふで観るものじゃないかもしれない。親子で鑑賞していると、親も所々で笑えるだろうけど、子供とTVを見ていたらいきなり濡れ場が登場してしまったような居心地の悪さを感じるだろう。しかし、完璧に子供向けに作ってある。嫌がらせかと思うくらいに

 実際、かなり完璧な実写化だと思う。日本で作られた漫画映画史上の上位に入る出来上がり。
 しかし、いち映画作品として見れば、間違いなく駄作。物語がつまらない。テンションは無駄に高いのに、ダラダラしている。画面作りが、TVでスペシャルとして放送すればいいんじゃないか、というレベル。そして何よりも、上映時間が長い。笑わせる場面などで、吉本新喜劇のような“間”を置いたり、無駄が多い。特にガンちゃんとドロンジョの恋愛要素が邪魔。あれさえなければ、20分は縮められた。
 三池監督は、観客の嫌がるものを作るのが上手だ。もしかしたら『ヤッターマン』も厭味た~っぷりで作ったのかもしれない。少なくとも、ニヤニヤしながら作ったのは間違いないだろう。“ちゃんと”作った部分と、自分の欲求に忠実に作った部分とがはっきりしてるし。その折衷がもう少し上手であれば、さらに凄い監督へと進化できるのに。それでも『ヤッターマン』は子供向けの雰囲気をまとっているのだから、十分に素晴らしい職人監督だ。自分が子供だったら真似したくなる場面でいっぱいだったし。アニメキャラがやるのと実際に人間がやるのとでは、アホなポーズの威力も段違いだ。確信犯な馬鹿映画
 ただし、馬鹿映画になったのは、三池監督の功績なのか、脚本のせいなのかはわからない。脚本を担当した十川誠志さんは、TVアニメの脚本を主な仕事にしている人で、実写映画でなら最近はあの超駄作『少林少女』を担当した人だ(同年の三池監督の『龍が如く』の脚本も十川さん)。『ヤッターマン』の脚本を読んだわけじゃないからわからないけど、元々馬鹿映画な脚本だったんだろう。それを三池監督が味付けすることで、『少林少女』にならずに済んだのかもしれない。

 『ヤッターマン』は世界マーケットで売れるだろうか? 『スピード・レーサー』が大失敗しているし、無理だとは思う。が、アニメ版の『ヤッターマン』を好きな人も、三池監督映画が好きな人も、かなり満足できる仕上がりになっている。恋愛要素を削除し、20分短ければ、さらに10年以上経っても記憶に残る異常子供映画となったのに。そこだけが惜しいと思う。
 あと、どうでもいいけど、ヤッターマンのロゴマーク、どう見てもブリーフに見えちゃうのは私だけだろうか?

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tag : ヤッターマン

2009-03-03

『WALL・E/ウォーリー』は傑作になり損ねている

 『WALL・E/ウォーリー』を観た――随分と前にだけど。ソフトがもうすぐ発売されるし、今さらだけど観た感想を。

 廃墟となった高層ビル群の狭間に『ハロー・ドーリー!』の歌が響き渡る冒頭から、大傑作の期待を煽る。ウォーリーの動作や細部に至るまで完璧に作り上げられたCGの技術力は世界最高。廃墟となった地上の造形も細部に至るまで作りこまれ、それだけで見惚れてしまう。さすがピクシー、絶対に期待を裏切らないどころか、いつも期待を上回る。全体の質感は、実写のようでいて、実写になりきらず、アニメとしての質感を残している。主要キャラのデザインも素晴らしい。主人公のウォーリーは昔のロボット映画を彷彿とさせる定番デザインだし、イヴはMacなデザインで高感度高し(IBMなウォーリーと好対照)。主人公のウォーリーやイヴは台詞が殆どなく、動作も限定されているのに、人間以上に愛らしい。お掃除ロボットのモーなんて、ただ掃除しているだけなのに、最も可愛い。
 とにかく、前半が素晴らしい。無声映画のように、殆ど喋らないロボットだけで演出される前半は、感動的な場面がなくても泣けるくらい、素晴らしい。前半をみるためだけに3回も観た。アニメ映画としては世紀の大傑作!
 が、映画全体を見ると必ずしも大傑作ではない。間違いなく面白いし、傑作ではあるし、技術的に世界最高だし、演出力もアニメ映画として最高レベル。それなのに駄目だと思う理由は、後半にある。

 人間が登場してきてから途端に本作の魅力は激減する。人間いらん。予告篇でも人間を登場させてなかったじゃないか。文明が進化して人間が退化した、という物語には文明批判が入っていてSFっぽくてそれなりに面白いんだけど、肝心の人間に魅力が全くない。どうせなら、失われた旧世代文明の生き残り、というこれまた定番のSFファンタジーっぽい設定で、登場人物も1人だけにした方が良かったような。ロボットたちと同様に言葉を喋られない設定にして。録画画像に映る人間は実写(?)なのに、登場人物は戯画化されている変な演出も気になる。本作の評価は、登場人物を評価できるかできないかにかかっている。
 物語もかーなりテキトーだ。ウォーリーの存在自体が都合良すぎる。他に同型の仲間が生き残っていない不思議に、感情が「どうしてか出来上がった」状態を前提として物語が作られている手抜き。まあでも、そんなことにちゃんとツッコミを入れて作っていると余裕で3時間程度の映画になってしまうので、しかたない。子供向けのディズニー映画なんだから、そこを批判するのは愚かな行為。重要なのは演出。物語が駄目でも、子供が大喜びできる夢溢れる演出が満載なら何の文句もない。だって、宮崎駿監督なんて、物語はどうでもいいような映画ばかり作ってる。しかし、本作は演出も平凡だった。
 例えば、実写を意識した、手持ちカメラ風の“揺れ”の演出。臨場感を出す工夫なんだろうけど、アニメでワイド画面に“揺れ”なんて基本的にいらない。“揺れ”が許されるのは、スタンダードサイズまでだと思う。イヴが最初に飛行する場面も、高揚感を煽る音楽を鳴らしている割に、平凡な演出だった。あの場面を見て、宮崎監督の演出は本当に優れていると実感した。どれだけCG技術が進歩しても、『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』の数々の演出にすら太刀打ちできていない。それだけでなく、イヴの飛行場面に関しては、日本のアニメの方が遥かに優れているものがある。日本のアニメは、セル枚数を少なくするためか、「溜め」から「発動」する動きの演出に優れている。「萌え」アニメだって基本はそこにある。アメリカのアニメは、そこが下手だ。
 できれば最初から最後までロボットだけで物語を作ってほしかった。人間を登場させなくても物語を成立させることはできた。変な文明批判を入れなきゃいいだけなんだし。ロボットが感情や生命に興味を抱くなんて話、日本の漫画やアニメには腐るほどあるし。つか、SFには腐るほどある。後半にある超有名なSF映画のパロディも笑えんかった。日本人的には『アルプスの少女ハイジ』に於ける「クララが立った!」なんだけどね。

 しかし、何より最も駄目なのは、『ハロー・ドーリー!』から引用されている歌の歌詞を字幕なり吹き替えなりでわかるようにしなかった点。台詞のないウォーリーとイヴの「心」の交流は、『ハロー・ドーリー!』の歌だけで表現されているだけに、その最も理解していないと駄目な部分を放置するなんて、それだけで作品の出来を貶めていることになる。これはディズニーの責任だ。ちゃんと作品を理解していないと思えてしまうよ。ソフトではちゃんと歌詞の字幕なり吹き替えを入れるんだろうか?
 所々に見惚れるようなショットはある。ウォーリーとイヴが宇宙空間で踊りまくる場面なんかは、ワイド画面を巧く使った構図で、良い場面だと思う(意味不明だけど)。最後の場面を除き、地上の場面もみんな良い。特に冒頭。『ハロー・ドーリー!』の歌がビルの狭間に反響し、砂埃を巻き上げながら走るウォーリーの登場は良かった。
 ホント、前半だけなら年間トップの出来なだけに、もったいない。

当ブログのもう1つの『WALL・E/ウォーリー』感想→2度目の『WALL・E/ウォーリー』を観る

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tag : WALL・E

2009-01-29

『ブラインドネス』は、舞台劇向き

 フェルナンド・メイレレス監督の『ブラインドネス』を観た。
 以上、終了。と、いきなり終わらせたくなるくらい、特に何の感想もない映画だった。強いていえば、「見る」という行為を意識させるような映画のような気がしたような。

 いきなり視野が真っ白になってしまう病気が流行り、全人類から視覚が奪われる世界――そんな設定から思い浮かべるのは、人間が醜く争うパニック映画だ。しかし実際は、パニック映画でなく、醜い争いは少しはあるけど、のどかな映画だった。盲人同士の電車ごっこ、一言でいうとそんな映画。
 パニック描写は、感染者収容施設での諍いだけ。人間模様に主眼を置いている筈なのに、ミクロすぎて、楽しむ前に映画が終わる。その諍いも、ジャイアンみたいな大馬鹿が大騒ぎしているだけで、結局のところ「どんな社会になっても、馬鹿は必ずいて、揉め事も必ずある」、そんだけのこと。
 唯一目が見えるジュリアン・ムーアさん演じる主人公「医者の妻」が宗教的な意味でも道を切り開くのかと思えば、怯えて何もしない。主人公が“見える”ことを知っている者がいるのに、敵対グループに密告される展開もなし。普通の発想なら、ある集団に異分子がいれば、「それは誰だ?」とサスペンスに発展するのに、サスペンス要素は全くなし。
 世界中に感染が広がり、終末的な雰囲気を出しているのに、最後に理由もなく勝手に治ってしまうので、これは『宇宙戦争』のショボイ版ですかと。いきなり目が見えなくなるから、慣れない状態に、手探りでゆっくりと動くため、みんなゾンビみたいでもある。感染したら大人しくなる『28日後...』というか。ショボさでは『ハプニング』よりマシだけど、面白さは『ハプニング』の方が遥かに上だ。これでカンヌのオープニングを飾ったってんだから、驚き。
 語り部が途中で入れ替わるのも意味不明。何のために観客を惑わす必要があるんだ?

 しかし、映画として駄目というわけでもない。なぜか微妙に面白い。収容所から逃げ出して街へ戻る後半の展開が特に。
 見えないんだから、人目を気にする必要はないので、みんな雨が降れば街中で全裸になって身体を洗ったり、いい歳した大人が主人公を車掌として電車ゴッコみたいに列をなして歩く描写なんかは面白い。あ、でもそれくらいしかないや。
 そんなどうでもいい描写の積み重ねで「目が見えなくなる世界」を表現している。『ハプニング』も巨大扇風機を使うだけで恐怖を演出する安物映画だったけど、『ブラインドネス』は俳優が目を瞑っているだけで全てを演出する激安映画だ。だからか、嫌いにはなれない。
 途中に何度もインサートされるコーネリアスの『Point』のジャケット・デザインみたいな「真っ白い視野の映像」も、邪魔だけど、嫌いになれない。

 映画がつまらないとしたら、それは原作がつまらないからだろう。そもそもこれ、映像化する必要ないでしょ。原作読めばそれでいい。明らかにテーマがメインの作品だから、描写や演出に重きを置く映像向きじゃない。
 テーマだって、目が見えなければ「見た目」での偏見も何もないけど、目が見えなくたって結局は醜く争うんだし、テーマそのものが駄目だといえる。周りがみんな見えなくなると、見えていることが不便になるというテーマへの逆光の当て方も、わかり易すぎて稚拙。
 目が見えなくなって社会機能が低下するのは当然の描写だけど、見える軍人が管理しているのに、収容施設が無法状態になるのはおかしすぎ。原作に反政府的な思考があるんだろう。
 目が見えないってのに、貴金属によって取引を行うのも意味不明。いかに人間は盲目的に強欲かを強調したかったんだろうけど、いくら何でも馬鹿揃いすぎて笑ってしまった。

 手持ちカメラ風の撮影にイラっとする部分はあれど、映画としては面白い出来になっている。脚本を除けば。つまり、物語はとても面白くない。確実に『ハプニング』以下。『感染列島』より下かも(映画としては『感染列島』より上)。メイレレス監督の手腕が決して悪いものでないだけに、もう少し大きく脚色をした方が良かった。

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tag : ブラインドネス

2009-01-05

『芸者vs忍者』の題名に偽りあり

 『芸者vs忍者』を観た。Vシネレベルの映画と高を括っていたら、予想外に面白かった。『ICHI』や『少林少女』に「見習え」といいたいくらいに。
 とはいえ、物凄く面白いわけじゃない。思ったよりも面白い、という程度。それでも日本のメジャーなアクション映画と比べれば、遥かに出来が良く、頑張っている。何度も比較対象にするけど、『芸者vs忍者』を観れば、いかに『ICHI』や『少林少女』なんかの出来が悪いかよーくわかる。アイドルや人気女優にマトモなアクションをやらせるのは無理だとわかっちゃいるけど、それなら映画を作るなよ、といいたいわけで。

 基本的に、低予算映画なので、肉体を酷使したアクション以外に見所はない。頑張っているという意味では、タイの『Chocolate』と比べても見劣りはしない。主演女優のアクションレベルだけなら『Chocolate』の方が遥かに上だけど、映画の見せ方は『芸者vs忍者』の方が上。タイのアクション映画は見せ方がまだまだ下手。痒いところに手が届く見せ方は香港映画や邦画の方が巧い(アイドルが出演しているメジャーな邦画は除く)。
 アクション以外に見所がないのは、物語がテキトーすぎるから。もうホントどうでもいい感じ。アクション場面の繋ぎに物語があるというか。上映時間が80分と、娯楽映画としては理想的な短さで、無駄な展開は不要とばかりにアクション場面しかない。潔し。
 アクションの見せ方はツボを押さえているし、展開も定石をよくわかっている。面白かったのは、忍者と森の中で戦う場面。『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』のスピーダーバイクのチェイス場面そっくりなことしてた。他にも、『マトリックス』のバレットタイムな演出があって、しかしあえてCGを使わず、『バッファロー'66』みたいに、動きを止めた役者の周りをカメラを回り込ませて撮影するローテクを使ってた。女同士で戦う際には、なぜかいきなり雨が降り、泥だらけになってキャットファイト。変なところで感心させられる映画だ。
 でも、明らかに途中でアクションのネタ切れになっている。忍者、弁慶みたな棍棒使い、幻術使い、女武道家……飽きずに見られたのはそれくらい。その他はかなり間延びしている。アクションのパターンも使い回し。そのため、最後のラスボスである侍が大して強く見えないのがもったいない。そもそも、題名にある忍者は、実は初っ端に出てくる雑魚キャラでしかなく、「芸者と忍者がどんな壮絶な戦いを繰り広げるのだろうか」と『くノ一淫法 百花卍がらみ』みたな期待をしていると肩透かしを食らう。

 今作がイマイチな理由は、脚本の出来が悪いこと。脚本担当の小高勲さんは、初めて脚本を担当したようだ。元々は録音技師で、その後にプロデューサー業をすることになり、今作では脚本も兼務。どーゆー転職っぷりなんだ。物語作りの素人だからか、他の作品から色々と拝借して組み立てられた物語にしかなってない。
 しかし、物語はアクション場面の繋ぎと開き直っているならば、映画がイマイチな原因は監督にある。小高さん同様、今作が映画初監督となる小原剛監督は、今まではアクション監督をやっていたから、さすがにアクション場面は要領を得ているので上手だけど、映画として魅せることに成功してはいない。初監督作品なんだから、パクリだろうが何だろうが、持てる知識と技術を総動員して作るべきだった。『芸者vs忍者』が限界だとは思えない。

 良し悪しで判断すれば色々と不満はあるけど、好き嫌いで判断すれば大好きな映画だ。
 『シックス・ストリング・サムライ』なんかと同等の映画ではあると思うので、海外の映画祭なんかでは人気出そう。『キル・ビル』とも似ているけど、さすがにクエンティン・タランティーノ監督には遠く及ばない。しかし、小原さんが今後も映画監督として映画を作り続けるなら、及ぶとも限らない。
 タランティーノ監督は『芸者vs忍者』を気に入るだろうな。

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tag : 芸者vs忍者

2008-12-04

『ホット・ファズ』の次は……『Chocolate』

 『ホット・ファズ』を観た。映画館で観たのは1ヶ月以上前だけど、つか海外版のDVDで約1年前に買って観ているんだけど、今日、ようやく邦盤のDVDも発売されるので、感想というか雑感みたいなものを。

 まず、『ホット・ファズ』は問答無用に面白い。警察(刑事ではない)のアクション&ミステリードラマとして傑作だ。前半はアホな人物がわんさか登場し、アホな展開が続き、イギリスならではののどか~なアホ映画。後半はからいきなり展開が変わり、ゴア場面はあるわ2挺拳銃の横っ飛び撃ちはあるわ鳩どころか白鳥まで飛ぶわ、最後には怪獣映画になる超展開が待ち受けているわと、ぶっ飛ぶ面白さだ。ロバート・ロドリゲス監督の『フロム・ダスク・ティル・ドーン』と似ているかもしれない。
 『ホット・ファズ』は、パロディ映画としても傑作だ。物語やネタとしてのパロディより、映画の作りそのものがパロディとなっている。基本を80年代以降の派手なアメリカ映画の模倣に置き、その上で現代的アレンジを加えている。その基本とは、ジェリー・ブラッカイマー流映画(無意味な爆発、無意味なスローモーション、カチャカチャした編集などなど、無意味な派手さを狙った映画)だ。わざと無駄に派手な作りにして、笑いを誘う。
 例えば、ロッカー・ルームでの着替え、書類を書く動作、色んな場面が無駄に細かいカッティングによって編集されている。というか、全編ジャンプカットだらけ。わかり易いようでわかり辛いパロディだけど、わかる人には爆笑間違いなし。いわゆる「ブロックバスター映画」を好んで観てきた人には、ツボだろう。
 全体の雰囲気は、コメディとシリアスの中間にいて、どちらかに偏ることなく微妙な融合に成功している。しかしそんな傑作が、大傑作『ショーン・オブ・ザ・デッド』同様に、またもや日本未公開となりそうだった。

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tag : ホット・ファズ Chocolate

プロフィール

Author:ばっどていすとさんどいっち
テクノ好き。
アンダーワールドのRez大好き。
映画大好き。
ジャッキー・チェンが生涯の英雄。
生涯1位作品は『ミミズバーガー』。
2位が『溶解人間』。
泣き虫で、馬鹿。
itsuka-omoi-dasu-bts@hotmail.co.jp

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